支那人は今でも皇帝が大好きである

大躍進運動と文化大革命という共に毛沢東が始めた政策により、およそ6000~7000万人の支那人が死にました。また彼は、核戦争になって国民の半分が死んでもやむを得ないとも考えていました。

四川省に生まれ日本に帰化した石平先生は、拓殖大学の名誉教授です。彼は、「支那人は皇帝が大好きだ」と言っています(『なぜ中国は民主化したくてもできないのか 「皇帝政治」の本質を知れば現代中国の核心がわかる』)。

この本を読んで、支那では政治的な動乱によって、信じられないほど多くの国民が死ぬ理由が、分かってきました。

今から2240年前に秦の始皇帝が、支那史上最初の皇帝になりました。彼は諸国を攻め滅ぼし、全土を皇帝の直轄領にして中央政府から役人を派遣して治めました。これが郡県制度です。

秦の始皇帝が出てくる前の支那は、各地に諸侯が割拠し独自に治めていました。そしてその諸侯の主君が、殷王朝や周王朝の王でした。これが封建制度です。江戸時代の日本も各地の大名が独自に領土を治めており、その主君が江戸の将軍でした。支那の封建時代と日本の江戸時代は、基本的な制度が似ています。

封建時代の支那(殷王朝時代及び周王朝時代)では、王が治めていた直轄領はごくわずかでしかなく、王が愚かで悪い政治をしても支那全土に悪影響があるわけではありませんでした。また、王が愚かなことをやりそうになったら、有力な諸侯が何人か集まって集団で王に文句を言って、止めさせていました。王が諸侯の忠告に耳を傾けないと諸侯が反乱を起こすので、彼らを無視できなかったのです。

日本の江戸時代も同じで、江戸の将軍の直轄領(天領)は全土の13%程度で、あとは大名の領地でした。大名の中には薩摩や長州など将軍に恨みを持つ仮想敵国も含まれており、将軍が愚かなことをしたら、各地の大名が反乱を起こします。封建時代、諸侯は王の暴走を抑える役割を果たしていました。

以下はひと続きのシリーズです。

3月1日 『毛沢東の私生活』を読みました

3月2日 『毛沢東の私生活』の著者は、特異な育ち方をした

3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた

3月4日 李志綏はやはり、その出自から思想的に疑われていた

3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった

3月6日 毛沢東は人たらしである

3月7日 毛沢東は、相手の弱点を握って服従させた

3月8日 毛沢東が江青を堕落させた

3月9日 晩年の毛沢東は、パラノイアだった

3月10日 毛沢東は、他人の苦しみを見ても平然としていた

3月11日 支那人は人間関係がすべて

3月12日 毛沢東の死は、政治的な大事件だった

3月13日 毛沢東の女たち

3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた

3月15日 大躍進運動が失敗し、5000万人が餓死した

3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ

3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした

3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった

3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った

3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした

3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした

3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった

3月23日 支那人は今でも皇帝が大好きである

3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた

3月25日 皇帝制度は、支那人にとって良い制度ではない

3月26日 皇帝制度があるから、大勢の支那人が死ぬ

3月27日 習近平は、党・国家・軍をすべて押さえた

3月28日 支那人は、習近平皇帝を望んでいるかもしれない

3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない

3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する

3月31日 支那は好戦的である

4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない

4月2日 習近平は毛並みが良い

4月3日 習近平は、農民の心をつかんだ

4月4日 支那人には、他人どうしが助け合う考え方がない

4月5日 儒教は、他人どうし助け合いなさい、などとは言っていない

4月6日 支那人は他人が苦しんでいるのを見ても、さして心を痛めない

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