毛沢東は権謀術数が大好きで、そういう点では乱世を勝ち抜いた支那の独裁的な皇帝の一人でした。しかしそれだけでなく、毛沢東には共産主義を信奉する思想家という側面もありました。この二つの性格が組み合わされて出てきたのが、大躍進政策です。
ソ連共産党は支那共産党の先輩格で、支那はソ連よりも格下でした。支那の皇帝たる毛沢東はそれが不愉快だったのですが、致し方がありませんでした。
スターリンは独裁者でいわばソ連の皇帝でした。ソ連も支那も共に独裁国家であり、政治体制が似ているので、二つの国はなんとかうまくやっていけたのです。ところがスターリンが死んでフルシチョフがソ連のボスになったのですが、彼はスターリン批判を行い(1956年)、ソ連は集団指導体制になりました。つまり、独裁体制はいけない、ということを世界に向かって宣言したわけです。
毛沢東がソ連の集団指導制を容認するということは、支那の独裁者たる自分の地位の否定することを意味します。毛沢東はソ連の集団指導体制を猛烈に批判し、以後両国の関係はどんどん悪化しました。
そこで毛沢東は、「支那のほうがソ連よりもまともな共産主義国家だ」ということを証明しなければならなくなりました。共産主義は、私有財産を否定し全ての生産設備を国有化する、というのが本筋です。農業も個々の農家の土地を取り上げて、多くの家族が一緒になって集団で行うべきなのです。ソ連はすでにそれをやっていましたが、支那ではまだ個々の農家が農業をやっていました。
そこで毛沢東は、支那でも農業の集団化を行うことにしました。村の農地を全て個人から没収し、村民が共同で農作業をすることにしたのです。これが人民公社です。共産主義理論によれば、農地を国有化すれば農業生産は飛躍的に増えるはずなので、毛沢東は農村の人民公社化を、「大躍進運動」と名付けました。
当時の世界では国力は鉄鋼生産量で量られていました。支那も巨大製鉄所を建設したかったのですが、金も技術もありませんでした。そこで人民公社に小さな製鉄所を建て、鉄鋼の生産量を増やそうとしました。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない