支那では国家組織より共産党組織の方が上位にあります。例えば、支那の今の外務大臣は王毅ですが、外務大臣は国家の役職で、彼は共産党員としては204人いる共産党中央委員の一人に過ぎません。彼の上司は王滬寧というチャイナセブン(共産党中央委員会の常務委員)の一員です。従って、河野太郎外務大臣と対等なのは、本当は王滬寧なのです。
毛沢東は共産党中央委員会主席で、それより下位の国家主席には劉少奇が就任していました。1969年の党大会で、毛沢東は共産党中央委員会主席に残留し、粛清した劉少奇が就任していた国家主席のポジションを廃止しました。
林彪は毛沢東の後継者に指名されましたが、それでも不安でした。そこで国家主席のポジションを復活させ、その地位に就くことで毛沢東の後継者の地位を確実なものにしようとしました。
ところが、毛沢東は国家主席のポジションに林彪を就けることは考えておらず、両者の関係は険悪になっていきました。そして1971年に林彪は突然軍用機に乗ってソ連に亡命しようとしましたが、軍用機の燃料が切れてモンゴル領内に墜落し、林彪は死にました。林彪が毛沢東を暗殺しようとして失敗したために、慌てて支那から逃げようとしたらしいのです。
支那人は基本的に他人を信用しません。林彪が死んだのも、元はと言えば二人とも相手を信用していないため、疑念がエスカレートして最終的に殺し合いになったのです。毛沢東も支那人らしく、非常に疑り深い性格で、絶えず側近を疑り、しばしばその人間の忠誠度をチェックしていました。
主治医の李志綏はアメリカ式の教育を受けていたために、支那人の疑り深さと独特の人間関係観に対する認識が甘く、「自分は医者だから、毛沢東のしている政治活動に関わらなくても良い」と考えていました。そのために、毛沢東から忠誠心を疑われるようになってしまったのです。
そこで毛沢東の疑念を晴らす必要が生じ、自発的に毛沢東が推進する活動に参加しました。第8341部隊が精華大学を占拠するために出動したときに、それに参加したのです。そして死にそうな目に遭って夜明け前に中南海に帰ってきました。それを見た毛沢東は満面の笑みを浮かべて、李志綏をねぎらいました。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない