李志綏は毛沢東に初めて対面したときの様子を、次のように書いています。
毛沢東は清朝の有名な高官だった張之祠の話を始めた。「張之祠は食事も睡眠も規則正しい時間割を守らなかった。私は張之祠みたいなものだ。目が覚めるとここ(プールサイド)にやってきた。今何時かね。」
主席は私の頭髪に視線をやった。「年はやっと三十を超えたばかりだね。どうして私より白髪がそんなに多いのか」。「主席の髪を拝見すると、私の方が主席よりずっと老けているように思えます」。毛主席は、「御世辞がうまいな」と言った。
このようなやりとりがすっかり私を気楽にさせた。毛沢東はいかにも魅力にあふれ、好意的でさりげなく、相手を気楽にして自由に語らせる雰囲気があった。
毛主席は私の学歴や治療経験について質問し、私の説明に注意深く耳を傾けた。「君は中学を出てから、完全にアメリカ式の教育を受けた。蒋介石と国民党に対する解放戦争中、アメリカは蒋を助けた。アメリカはまた朝鮮でも我々と戦った。それでも私は、アメリカ式やイギリス式の訓練を受けた人たちに働いてもらいたいと思う。私は外国語に興味がある。ロシア語を学ぶべきだという者もいるがね、私は嫌だ。むしろ英語の方を学びたい。英語を教えてくれるな。」
毛沢東はしばらく口をつぐんでから、一段と生真面目になった。「君が1935年に国民党の組織に入ったとき、まだ15歳に過ぎなかった、ほんの餓鬼だ。しかも、その話は君がすでにちゃんと上司に報告してある。私には、これが問題だとは考えられないね。」
毛沢東は唐の第二代皇帝・太宗(李世民)の話を引き合いに出した。太宗は重臣たちの諫めを聞き入れず、疑惑のある過去を持つ将軍を重用して、自分の傍らに寝ることまで許した。太宗と将軍は阿吽の呼吸で協力し合うことができた。毛沢東は、「なにが大切かというと、真心だ。お互いに真心を持って相手を扱わなければならない」と言った。
李志綏の周囲は、彼の家族的な背景と政治的な過去を攻撃し、党籍をはく奪しようとまでしました。ところが毛沢東は、「君はほんの餓鬼だった」「問題は真心だ」と言って、李志綏の過去の重荷を取り払ってくれました。彼はほっとして安らかな気分になり、舞い上がってしまいました。そして毛沢東のためならどんなことでもしよう、と決意しました。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない