毛沢東には、相手をリラックスさせ自由に語らせる雰囲気がありました。そして李志綏の弱点をしっかりと把握したうえで、それは何の問題でもなく、「君は餓鬼だった」「問題は真心だ」と言って、彼を安心させ過去の重荷を取り払ってくれました。
毛沢東は初対面に相手に対していつもこの手を使う、ということに李志綏は次第に気づくようになりました。相手の弱みをしっかりと握った上で、毛沢東はそれを問題にしないという態度をとるのです。
毛沢東以外の者は、相手の弱点を掴んで離さず、その古傷を暴いて相手を責めたてます。ところが毛沢東はそういうことをしないで普通に接してくれるので、毛沢東を頼るしかないのです。このようにして毛沢東は相手を服従させ、利用しました。
毛沢東の周囲には、劉少奇・林彪などの後継者と目された者がいましたが、みな毛沢東方式を理解せずに、失脚して消えていきました。彭徳懐という元帥は、軍事的才能があり、貧農の出身でもあったので、弱点がありませんでした。彼は毛沢東の茶坊主になろうなどとは考えもしませんでした。弱点がなく茶坊主になる気もなかったので、毛沢東にはめられ獄中死しました。
このような毛沢東の人間操縦法を理解していたのが周恩来でした。周恩来は、「毛沢東の茶坊主だった」というのが一般の理解です。確かに彼は毛沢東の茶坊主であることは間違いないのですが、毛沢東のやり方を心得ていたので最後まで生き残りました。李志綏も「周恩来は毛沢東のやり方を理解していた」と書いています。
周恩来が毛沢東をよく分かっていたことは、彼の江青に対する態度を見れば分かります。江青(1913~1991年)は、もと女優で毛沢東の四番目の妻です。政治的には何の才能もないのですが、権力を握りたいという強烈な願望と夫に捨てられるという恐れを持っていました。毛沢東は、江青のこの弱点を利用して気に入らない者を排除しようとしました。
江青は、政敵を多くの人の前で目立つように非難するので、敵が多かったのです。政敵が江青をやっつけようとすると、周恩来が間に入って問題を収めてしまいました。毛沢東が江青の弱点を今後も利用し続けようと考えていることが、分かっていたからです。江青が失脚したのは毛沢東が死んだ直後で、最後は刑務所の中で自殺しました。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない