習近平は毛並みが良い

習近平は、国家主席の任期制限を撤廃することに成功するなど、支那の実質的な皇帝になりつつあります。彼が皇帝の座を確実なものにするためには、周辺国に好戦的にならざるを得ません。もともと好戦的な支那が、さらに好戦的になるわけです。

毛沢東が亡くなった(1976年)後の指導者(華国鋒、鄧小平、江沢民、胡錦濤)は、どれも権力基盤が強固ではありませんでした。ところが習近平は、共産党中央委員会総書記、国家主席、共産党中央軍事委員会主席の三つの重要ポストを全て押さえています。特に国家主席については、任期を制限する憲法の規定を撤廃し、死ぬまで主席でいられるようにしました。

習近平には華々しい政治的な実績はなく、カリスマ性もないのですが、毛沢東の後継者としてふさわしい経歴があります。この経歴と支那人全体の皇帝を待望する空気が結合して、彼を皇帝の座に押し上げつつあるような気がします。

実は習近平の父親である習仲勲(1913~2002年)は、共産党中央政治局委員という大幹部だったのです。文化大革命が起きる前に失脚し、狭い部屋に幽閉されるなど悲惨な体験を16年間も続けました。

習仲勲は毛沢東が死んで2年後の1978年に復活し、共産党中央政治局委員に返り咲きました。習近平はその子供ですから、毛並みが非常に良いのです。

また習近平自身が文化大革命を無難に切り抜けて汚点を残していません。彼は文化大革命の最中の1969年、16歳で陝西省の田舎に下放されました。そこでの生活の辛さに耐えかねて、半年で母親のもとに逃げ帰ったところ、母親に当局に密告されそうになりました。息子を匿ったことがばれたら彼女の身が危なかったからです。

母親が黙って消えて自分を密告しに行ったことに気付いた習近平は、陝西省の田舎に戻り、村人に詫びを入れてまた受け入れてもらいました。自分の置かれている状況をきちんと判断できたわけで、この種の政治的センスは悪くなさそうです。

以下はひと続きのシリーズです。

3月1日 『毛沢東の私生活』を読みました

3月2日 『毛沢東の私生活』の著者は、特異な育ち方をした

3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた

3月4日 李志綏はやはり、その出自から思想的に疑われていた

3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった

3月6日 毛沢東は人たらしである

3月7日 毛沢東は、相手の弱点を握って服従させた

3月8日 毛沢東が江青を堕落させた

3月9日 晩年の毛沢東は、パラノイアだった

3月10日 毛沢東は、他人の苦しみを見ても平然としていた

3月11日 支那人は人間関係がすべて

3月12日 毛沢東の死は、政治的な大事件だった

3月13日 毛沢東の女たち

3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた

3月15日 大躍進運動が失敗し、5000万人が餓死した

3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ

3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした

3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった

3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った

3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした

3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした

3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった

3月23日 支那人は今でも皇帝が大好きである

3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた

3月25日 皇帝制度は、支那人にとって良い制度ではない

3月26日 皇帝制度があるから、大勢の支那人が死ぬ

3月27日 習近平は、党・国家・軍をすべて押さえた

3月28日 支那人は、習近平皇帝を望んでいるかもしれない

3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない

3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する

3月31日 支那は好戦的である

4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない

4月2日 習近平は毛並みが良い

4月3日 習近平は、農民の心をつかんだ

4月4日 支那人には、他人どうしが助け合う考え方がない

4月5日 儒教は、他人どうし助け合いなさい、などとは言っていない

4月6日 支那人は他人が苦しんでいるのを見ても、さして心を痛めない

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