支那の皇帝は、自分の国内での権威を高めることを狙って、周辺国に盛んに挨拶に来るように勧誘しました。挨拶に行くと儲かるので、招待に応じる周辺国が多かったのです。しかし、下手に関係を持つとややこしいことを要求されるので、挨拶を拒否する国もありました。
支那の皇帝の勧誘が無視されると、国内の民の信頼が揺らぎ、ひいては反乱に繋がります。挨拶に来いという勧誘が拒否されたら、支那の皇帝は露骨にその国を侵略します。歴史上そういう事例が多々あります。
元の皇帝が日本に対して挨拶に来いと言ってきました。天皇陛下がそれを拒否したので、大軍を送って日本を征服しようとしました。これが元寇です。
もう一つが、隋による高句麗遠征です。4世紀ぐらいから7世紀にかけて、満州と北朝鮮を領土とする高句麗という強国がありました。6世紀末に隋が支那を統一し、高句麗に挨拶に来いと言ったのですが、高句麗はそれを拒否しました。
そこで隋は589年に30万の大軍を送って高句麗に侵攻しましたが、失敗しました。612年には、60万の大軍を送って二度目の侵攻を行いましたが、また失敗しました。そして二度にわたる高句麗遠征の失敗で隋の国内で反乱が起きました。
国内で反乱が起きているのに隋は懲りずに三度目の侵攻をしました。疲れ切った高句麗は挨拶に行くことを隋に約束して、軍隊を引き揚げてもらいました。高句麗から軍隊を引き揚げた隋は、間もなく滅びました。
隋は高句麗遠征に百万の軍隊を送り、その失敗が原因で滅びました。私はかねてから、隋が何でそこまでムキになって高句麗遠征に熱中したのか、分かりませんでした。最後には国内に反乱が起きて王朝が滅びそうになっても、また軍隊を送っているのです。
私は石平先生の本を読んでやっとその理由が分かってきました。これは単なる隋の皇帝の見栄の問題ではありません。皇帝が周辺国になめられたら、国内で信望を失い内乱が起きるのです。王朝を存続させようと思うならば、何が何でも周辺国に挨拶させなければなりません。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない