明治維新後に、渋沢栄一は大隈重信に引きたてられて大蔵省の次官となりました。彼は政府の高官として経済政策を実施しましたが、当時の日本には政府の経済政策に呼応する財界のリーダーが不在でした。
そこで彼は自ら財界のリーダーになろうとして退官し、実業家になったのです。彼は実業家として非常に優秀で、500社以上の企業の設立に参画しました。その中には、今でも活躍している大企業が数多くあります。
第一国立銀行(みずほ銀行)、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、東急電鉄、秩父セメント、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖
絹糸は当時最大の輸出品だったのですが、製品を自ら海外に売りに行くだけの実力のある業者がなく、日本の港にやってきた外国企業に絹糸を売っていました。「絹糸輸出業協同組合」とでも称すべき業界団体もなく、個別の業者が直接外国企業と売買の交渉をしていました。
日本の絹糸業者がバラバラなのに目を付けた外国企業は、日本の業者を各個撃破して絹糸を安く買いたたこうとしました。絹糸の品質に文句をつけて買いたたいたり、外国企業が結託して絹糸を買うのを手控えたりしました。絹糸を買ってくれなければ日本の業者は資金繰りに困り、製品を値下げせざるを得ないのです。
絹糸は最大の輸出製品だったので、外国企業の買いたたき作戦は日本にとって重大な問題でした。そこで渋沢栄一が登場しました。日本の業者を集めて、絹糸の品質検査機関を設立し、品質証明書を発行しました。これによって外国企業が個々の企業の製品にいちゃもんをつけることができなくなりました。
また外国企業が結束した不買運動に対しては、日本の業者を集めて不売組織を作って対抗しました。絹糸を売らないと業者は資金繰りに困るので、栄一は政府や銀行と交渉し絹糸業者に資金を貸し付けるようにしました。
栄一がやったのは、このような産業界のルールを作ることでした。彼が「日本資本主義の父」と呼ばれているのももっともです。
以下はひと続きのシリーズです。
9月8日 渋沢栄一は、損得勘定だけで世の中を考えてはならない、と考えていた
9月9日 西郷隆盛は、もっと戦をしなくてはならない、と言っていた
9月10日 欧米を見聞した維新当時の指導者は、征韓論に反対した
9月13日 今の日本人は、経済的自由主義を正確に理解していない
9月15日 欧米のFreedomには、保護し教育するために強制する、という考えが含まれている
9月16日 明治時代の官営事業は、経済的自由主義に基づいている
9月17日 自由主義は、弱者と強者を同じ土俵で競争させるという考え方ではない
9月18日 ちゃんとした大人は好きなことをやって良い、というのが自由主義
9月20日 Freedomは昔から日本にあり、誠と呼ばれていた
9月21日 経営者団体の目的は、経済活動に関して政府に提言すること