経済学は、人間を「金太郎飴」のように個性のない存在として捉え、民族の文化的な違いも認めようとしません。全ての人間が同時に同じニュースで世の中の動きを知り、同じようなことを考えている、という前提で社会を分析しています。このあたりも、私が経済学に納得しない理由です。
例えば、老人の医療にどのぐらいのお金を使うべきか、という問題に経済学は深く関与できません。どの程度の医療をすればどのぐらい費用がかかるかは計算できますが、どこまでやるべきかという問題は、損得勘定ではなく道徳や哲学の問題だからです。
さらにその問題を突き詰めていくと、民族固有の価値観の問題につきあたります。日本では、老人に対する延命治療を止めると殺人罪に問われる恐れがありますが、西欧では無理に延命治療を続けると、老人に対する虐待だと判断されます。
軍事力や老人医療の問題など、金銭で評価できないが人間の幸福と不可分のことがたくさんあります。そういうことの大部分を経済学は考察の対象から外しているのが経済学の限界だ、と私は感じています。
アダム・スミス(1723年~1790年)やジョン・スチュアート・ミル(1806年~1873年)などの古典派の経済学者たちは、経済学の守備範囲が狭いということをよく自覚していました。
ところが近年の経済学者たちは、このことをとかく軽視しがちで、社会で起きる現象のほとんどが経済学で説明できると考えているようなフシがあります。特に50年前の1968年にノーベル経済学賞が設立されたことが、この傾向に拍車をかけたような気がします。
損得勘定だけで世の中を考えてはならない、ということを考えていたのが、渋沢栄一でした。かれは「日本資本主義の父」と言われ、明治から昭和初期まで実業界で活躍していました。
彼は『論語と算盤』という講演集を出版して、損得勘定以外の価値観と損得勘定を総合して経済活動をしていくべきだ、と主張していました。そしてこの考え方は、アダム・スミスやジョン・スチュアート・ミルなどの自由主義を主張する古典派経済学者と共通しています。
以下はひと続きのシリーズです。
9月8日 渋沢栄一は、損得勘定だけで世の中を考えてはならない、と考えていた
9月9日 西郷隆盛は、もっと戦をしなくてはならない、と言っていた
9月10日 欧米を見聞した維新当時の指導者は、征韓論に反対した
9月13日 今の日本人は、経済的自由主義を正確に理解していない
9月15日 欧米のFreedomには、保護し教育するために強制する、という考えが含まれている
9月16日 明治時代の官営事業は、経済的自由主義に基づいている
9月17日 自由主義は、弱者と強者を同じ土俵で競争させるという考え方ではない
9月18日 ちゃんとした大人は好きなことをやって良い、というのが自由主義
9月20日 Freedomは昔から日本にあり、誠と呼ばれていた
9月21日 経営者団体の目的は、経済活動に関して政府に提言すること