日本商工会議所は、企業経営者が集まって作っている組織です。一般的には算盤や簿記の検定試験をやっていることで知られていますが、本来の目的は別にあります。
日本商工会議所は、明治10年(1878年)に設立された東京商法会議所が発展したものです。当時の日本は欧米列強と不平等条約を結んでいて、日本は自国の判断で商品の輸出入の関税率を決めることができませんでした。
国内産業を保護するために外国製品の輸入関税を引き上げたいと思ってもそれができず、日本の産業界は非常に苦しんでいました。そこで大蔵卿(大蔵大臣)だった大隈重信は、イギリス公使のパークスに向かい、「商人どもの不平がはなはだしい。世論が沸いているから条約の改正を考えてほしい」と申し入れました。
ところがパークスは、「何を根拠にいうのか。あの男が申したというのは世論ではない。日本に世論があるのか。大勢の人間が集まって意見をまとめる場所が一つもないではないか」と反論しました。
そこで渋沢栄一が音頭をとって東京商法会議所(現在の日本商工会議所)を設立し、実業家を集めたわけです。日本商工会議所の第一の目的は、経営者の親睦を図ることではなく、経済活動に関する世論をまとめて、それを国策に反映させることなのです。
渋沢栄一(1840~1931年)は、ペリーが黒船を率いて浦賀にやって来る13年前に、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市血洗島)で生まれました。家は養蚕をやっている農家でしたが、他にも染料である藍玉の仕入れ販売業もしていました。家は経済的に恵まれていました。
栄一が20歳ぐらいになった時の日本は、欧米列強の圧力を受けて騒然としていました。彼は家の仕事に従事する一方でひとかどの尊王攘夷志士になり、高崎城を乗っ取ったあと横浜を焼打ちし、さらに長州と連携して幕府を倒そうという計画まで立てていました。
この計画が失敗して父親から勘当され路頭に迷った上に指名手配まで受けたので、仕方なく徳川慶喜(後に15代将軍)に仕えて武士になりました。慶喜の息子(徳川昭武)がパリの万国博覧会に父親の名代として出席することになり、栄一はその随員となって渡欧しました。そして資本主義と自由主義経済を体験しました。
以下はひと続きのシリーズです。
9月8日 渋沢栄一は、損得勘定だけで世の中を考えてはならない、と考えていた
9月9日 西郷隆盛は、もっと戦をしなくてはならない、と言っていた
9月10日 欧米を見聞した維新当時の指導者は、征韓論に反対した
9月13日 今の日本人は、経済的自由主義を正確に理解していない
9月15日 欧米のFreedomには、保護し教育するために強制する、という考えが含まれている
9月16日 明治時代の官営事業は、経済的自由主義に基づいている
9月17日 自由主義は、弱者と強者を同じ土俵で競争させるという考え方ではない
9月18日 ちゃんとした大人は好きなことをやって良い、というのが自由主義
9月20日 Freedomは昔から日本にあり、誠と呼ばれていた
9月21日 経営者団体の目的は、経済活動に関して政府に提言すること