明治4年に明治政府は、留学生や随員も含めて総勢が100人を超す大使節団(岩倉使節団)を欧米に派遣しました。
団員たちは、欧米の富を見て驚愕しました。後に外務大臣などを務めた井上馨(1836~1915年)は、フランスで漁師が住んでいる家が石造りなのを見て涙を流したということです。あばら家に住んでいる日本の漁師に比べて、あまりの豊かさに愕然としたわけです。
岩倉使節団の全員が、日本も豊かにならなければならない、と思いました。優秀な武器も機関車も、漁師が石造りの家に住めるのも、みな国が豊かだからこそ実現できたのです。
下級武士あがりの政府高官たちは、国富を増すことによって、軍備を増強し日本の独立を維持しようとしました。彼らが子供の時はまで江戸時代だったので、儒教教育を受けていました。もっともその内容は本場の儒教とは相当に異質で、儒教とは言えないようなまがいものではありましたが。
彼らが教わった儒教では、利益を追求することを敵視はしていませんでしたが、民が腹いっぱい食えることを目指していてそれ以上の富を求めることを目的にしていませんでした。従って彼らの受けた儒教教育と富国強兵は、繋がっていません。彼らは欧米に視察旅行に行って、富国強兵の考え方を知ったのです。
実は、富国強兵の考え方は、西欧の自由主義経済学から来ました。欧米を視察したことがなかった西郷は、欧米の考え方を肌で感じることができず、経済の重要性を軽視して道徳の面ばかりを考えていました。
そのために、大久保利通や伊藤博文など欧米を見聞して富国強兵の考え方を持った高官と、意見が対立しました。西郷は、大久保や伊藤などは金銭に汚くなった、と感じたのです。そして維新の大目的を忘れひたすら富貴を求める者たちに牛耳られている新政府に反感を持ちました。これが西南戦争の原因です。
薩摩出身の大久保利通は、海外の客をもてなすために洋館の自宅を建てました。それが写真に撮られて一般に流布されたために、薩摩士族は「大久保は金銭に魂を奪われた」と理解したのです。
以下はひと続きのシリーズです。
9月8日 渋沢栄一は、損得勘定だけで世の中を考えてはならない、と考えていた
9月9日 西郷隆盛は、もっと戦をしなくてはならない、と言っていた
9月10日 欧米を見聞した維新当時の指導者は、征韓論に反対した
9月13日 今の日本人は、経済的自由主義を正確に理解していない
9月15日 欧米のFreedomには、保護し教育するために強制する、という考えが含まれている
9月16日 明治時代の官営事業は、経済的自由主義に基づいている
9月17日 自由主義は、弱者と強者を同じ土俵で競争させるという考え方ではない
9月18日 ちゃんとした大人は好きなことをやって良い、というのが自由主義
9月20日 Freedomは昔から日本にあり、誠と呼ばれていた
9月21日 経営者団体の目的は、経済活動に関して政府に提言すること