「日本資本主義の父」と言われた渋沢栄一のことを考えていた時に、私は西郷隆盛のことを連想しました。彼らは、共に幕末から志士活動をしていて明治初期の指導者でもありましたが、考えている事が正反対でした。
西郷隆盛は、明治維新に満足していませんでした。幕府に代表されるような惰弱な勢力と徹底的に戦い日本全土が焦土になって初めて、日本人の精神が叩き直される、と考えていたのです。
そういう意味では、戊辰戦争は中途半端でした。徳川慶喜は大政奉還を行って、まともに官軍と戦おうともしませんでした。その結果、彼は死刑を免れ、静岡で60万石という大きな領土を天皇陛下から頂戴し、後には公爵になりました。
そもそも敵の総大将を死刑にもせず大領主にするなど、歴史上他に例がありません。フランス革命など、考え方の違う連中を数千人もギロチンで殺し、何度も内乱が起きました。西郷隆盛のように「戦が足りない」と歯ぎしりしながら不平を言う方が、むしろ普通の発想です。
西郷隆盛が新しい体制に不満たらたらの時に、征韓論が起きました。朝鮮は、維新後の日本人が従来の伝統を捨てて欧米の考え方に染まったことを激しく侮辱しました。日本の内政問題が気に入らないと文句を言ったわけです。朝鮮人は今も昔も同じで、他国民を怒らせるのが得意なのです。これに多くの日本人が激高して生まれたのが征韓論です。
西郷は朝鮮に行って彼らを説得しようと思ったのですが、大久保利通や伊藤博文など他の高官は戦争になることを心配して反対しました。自分の主張が認められなかったために、西郷は鹿児島に帰り、そこで薩摩武士の英気が衰えないように維持しようとしました。薩摩武士の英気が政府に対する不満と結びついて起きたのが、明治10年の西南戦争です。西郷はこの反乱を阻止することができませんでした。
朝鮮が日本の施策が気に入らないと内政干渉をし天皇陛下を侮辱したなどの無礼なことをしたので、日本人が怒るのももっともです。征韓論に反対した政府高官はもともとが下級武士で、革命をやり遂げた血の気が多い連中ですから、朝鮮に攻め込むことに心情的に反対する理由がありません。しかし、彼らが西郷を引き止めようとしたのには、特別の事情がありました。
以下はひと続きのシリーズです。
9月8日 渋沢栄一は、損得勘定だけで世の中を考えてはならない、と考えていた
9月9日 西郷隆盛は、もっと戦をしなくてはならない、と言っていた
9月10日 欧米を見聞した維新当時の指導者は、征韓論に反対した
9月13日 今の日本人は、経済的自由主義を正確に理解していない
9月15日 欧米のFreedomには、保護し教育するために強制する、という考えが含まれている
9月16日 明治時代の官営事業は、経済的自由主義に基づいている
9月17日 自由主義は、弱者と強者を同じ土俵で競争させるという考え方ではない
9月18日 ちゃんとした大人は好きなことをやって良い、というのが自由主義
9月20日 Freedomは昔から日本にあり、誠と呼ばれていた
9月21日 経営者団体の目的は、経済活動に関して政府に提言すること