功利主義によって社会全体が良くなるということを、ミルは二つの理由を挙げて説明しています。一つ目は、「幸福を増大させる行為は正しい」ということです。
もう一つの説明は、「幸福は、食欲と性欲だけを意味しない」ということです。この件についてミルは、下記のように書いています。
「獣の快楽をふんだんに得ることが約束されたからといって、何らかの下等動物に生まれ変わることを了承する人間はいないであろう。知性ある者が愚か者になることを、良心を持つ人が利己的で卑しい人になることを了解しないだろう。この躊躇の気持ちは、誇りや自由、尊厳の自覚で説明することができる」
「いかなる人間も自分本位の利己主義者ではない。愛情や公共善に関心を持っている」
「自分の幸福を求めない英雄や殉教者がいる。彼らは自分の楽しみを放棄することによって、世界の幸福の総量を増大させる」
「ナザレのイエスの黄金律は、功利性の倫理の精神である。人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」
要するにミルが言いたいのは、「イエス・キリストを信じていて心が正しい者だけが、自由を認められる。彼らは、キリスト教の教えによって隣人愛の気持ちに満ちている。だから彼らに自由を認めても、社会を良くすることしかしない」ということです。
ミルは、「神が人間の幸福を望んでいるならば、神が良いと思って啓示したものは、全て功利性を持っているはずだ」とまで書いています。
ミルは、キリスト教社会でしか自由は成立しない、と考えていました。しかし、日本はキリスト教国ではありません。だから、ミルの本を読んだ明治初期の日本人は、欧米列強が日本に不平等条約を押し付けた理由をちゃんと理解しました。
その一方で、明治初期の日本人はキリスト教のFreedomや隣人愛の思想が昔から日本にもあった、と考えました。だから明治7年に太政官が出した公文書に、「自由之理は随神(かんながら)の道であり、昔から日本にあった」と書いたのです。そして、経済的自由主義により、富国を実現し最終的に強国になろうとしたわけです。
以下はひと続きのシリーズです。
9月8日 渋沢栄一は、損得勘定だけで世の中を考えてはならない、と考えていた
9月9日 西郷隆盛は、もっと戦をしなくてはならない、と言っていた
9月10日 欧米を見聞した維新当時の指導者は、征韓論に反対した
9月13日 今の日本人は、経済的自由主義を正確に理解していない
9月15日 欧米のFreedomには、保護し教育するために強制する、という考えが含まれている
9月16日 明治時代の官営事業は、経済的自由主義に基づいている
9月17日 自由主義は、弱者と強者を同じ土俵で競争させるという考え方ではない
9月18日 ちゃんとした大人は好きなことをやって良い、というのが自由主義
9月20日 Freedomは昔から日本にあり、誠と呼ばれていた
9月21日 経営者団体の目的は、経済活動に関して政府に提言すること