儒教の大先生である孟子は、次のようなことを言っています。「心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治められる。人に治められる者は人を養い、人を治める者は人に養われる。」(『孟子』滕文公章句上)
支那人や朝鮮人は、孟子の教えをそのまま実践しています。清末にイギリスの公使館(イギリスは清のような弱小国には大使を派遣せず、公使で済ましていた)に清の高官が訪問して会議を行いました。
このときにイギリス公使は、会議室の机と椅子の配置が悪いとして、自分で机と椅子を異動させました。それを見た清の高官は、以後その公使と会おうとしませんでした。イギリスの公使は士大夫でなく、自分と対等な相手ではないと判断したからです。
朝鮮の両班、特に文班も支那人と同じで、肉体労働を一切やりません。日本人は大名も社長も、部下が忙しそうにしていたら手伝うのが普通です。江戸時代の北海道に松前藩があり、鮭漁が忙しい秋には、藩主もその奥方も漁を手伝っていました。こういう事情から、朝鮮人は日本には自分たちと対等な者がいないと判断したのです。
このように朝鮮は、人を激しく差別する国です。李氏朝鮮時代、朝鮮人は両班・中人(下級官僚階級)・常人・奴婢・白丁の五種類に分かれていました。現代でも、朝鮮人の差別意識の強烈さは相変わらずです。
両班という階級の在り方が朝鮮人の思考回路をよく表しているので、もう少しこの話を続けようと思います。江戸時代、朝鮮から幕府の将軍に対して「朝鮮通信使」が派遣されていました。朝鮮通信使という名称は後に歴史学者が付けたもので、幕府は「朝鮮来聘使」と言っていました。
「聘」というのは「贈り物を持って人がやってくる」という意味です。確かに日本は使いを受けるだけで、答礼使を朝鮮に派遣しておらず上位にたっているので、貢物を持ってきたという理解は正しいです。
朝鮮側は、この使節を「回答兼刷還使」と称していました。野蛮国だと思っている日本に貢物を持っていく実態を隠すという意味で、このような名称が付けられたようです。最初の使節は、秀吉の朝鮮出兵に対して謝罪せよ、と日本に要求し、二度目から日本にその回答を求めていたからです。しかし幕府がこれに回答した形跡はありません。