元寇後に、対馬や壱岐の島民が復讐のために朝鮮沿岸を襲うようになりました。これを朝鮮側では「倭寇」と言っています。李氏朝鮮の第四代国王である世宗は、倭寇を退治しようとして1419年に対馬を襲いました(応永の外寇)。
この時の朝鮮側は、227隻の船に17285人が乗り込んでいました。足利幕府は迎撃部隊を派遣しようとしましたが、それが到着するまでの間に、対馬国守護の宋貞盛が600人の手勢だけで打ち破りました。朝鮮側はおよそ2500人が死にました。
朝鮮国軍が、三十分の一の現地守備隊に負けたわけですが、今の朝鮮はその実態を国民に教えていません。朝鮮では第四代国王の世宗は、儒教に則って政治を行い、倭寇をも退治した大変な名君だ、ということになっています。
だから、南朝鮮海軍は20年ほど前に建造したイージス駆逐艦に「世宗大王(セジョンデワン)」と命名しました。自国の歴史に嘘ばかりつくので、みっともない負け方をした王の名前を軍艦につけてしまうのです。
豊臣秀吉は、文禄の役(1592年~1593年)、慶長の役(1597年~1598年)の二回にわたって朝鮮出兵を行いました。秀吉は明を征服することを目指していたので、朝鮮は単に明への通り道にすぎませんでした。ただ、なぜ秀吉が明を征服しようとしたのか、はよく分かっていません。
秀吉が耄碌して戦いをしかけたという説もありますが、戦国時代を生き抜いてきた大名たちが耄碌じいさんに従うはずもなく、それなりの理由があったはずです。
当時のスペインは、東アジア全土を征服しようとしていて、まず明を征服し、その兵力で日本を征服しようという計画を立てていました。それを秀吉が察知して先に明を取ろうとした、という説があります。ところがスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れて落ち目になったということが分かったので、日本としては無理をして明を征服する意味がなくなったのです。
この戦争ではっきりしているのは、明軍と朝鮮軍が恐ろしく弱かったということです。4月12日に釜山に上陸した16万人の日本軍は、20日後の5月2日にはソウルを占領しています。朝鮮軍16万人も応援に来た明軍25万も、ろくに戦おうとしませんでした。明軍などは、朝鮮人の首を切ってそれを日本兵だということにして、恩賞を請求していました。