李氏朝鮮の両班である韓確は二人の妹を積極的に貢女にしました。そのうちの一人は永楽帝の側室になり、もう一人は宣徳帝の妾になりました。彼女らは朝鮮にとって重要な情報源になったため、兄の韓確は副首相クラスの高官になりました。
韓確のように出世することを期待して、自分から進んで親族を貢女に出す者も多くいました。貢女として明の帝室の後宮に入った親族の女を出世させるために、朝鮮の情報を積極的に明に流すスパイのような者も出てきました。
「貢女」は、朝鮮が支那のご機嫌を取り結ぶための仕組みとして始まりました。それが朝鮮内部で出世するための手段として朝鮮人両班に利用されるようになりました。支那から見たら、「貢女」は朝鮮の内部情報を収集するスパイのような存在なのです。
支那が朝鮮国内に作ったスパイ網に、「貢女」システムのほかに、「儒林」がありました。儒林は、表向きは朝鮮人の自主的な儒教研究機関だったのですが、その実態は支那(明・清)の出先機関でした。支那のスパイを養成し、支那を賛美するように洗脳教育を行っていて、19世紀には朝鮮全国に680の儒林がありました。
支那を後ろ盾に持つ儒林は、各地で事実上地方行政を取り仕切っていました。地方政府の役人には権威がなく、逆らっても怖くはなかったのです。ところが儒林は、与太者を私兵として養っていたため、儒林への献金を拒めば半殺しにされました。
朝鮮政府への税は集まらなくても、儒林への献金は確実に集まり、その一部が支那に上納されていました。支那は朝鮮王や高官に圧力をかけて、儒林を保護するように命令していたため、朝鮮王も儒林に逆らうことは難しかったのです。
儒林の不正と戦おうとした高官の多くは、不審死を遂げるか行方不明になりました。そして儒林の関係者は、秘密情報を支那には伝えましたが、朝鮮政府には伝えようとしませんでした。
儒林は支那の朝鮮支配の拠点で、これにより朝鮮をコントロールしていたのです。そして世界中でこの儒林が形を変えて甦えりつつあります。それが「孔子学院」です。
コメント
よくこの時期に孔子学院のこと言えたし、儒林のこともよくご存知でしたね。今でこそ世界は納得しますが、この時期は?って反応されたでしょう。感服に値します。