両班の発想は今でも健在のようです。南朝鮮の財閥はみな戦後にできたもので、技術的・財政的な基盤などありませんでした。財閥の創始者たちはいわば「政商」で、政界の有力者と特別な関係を作り、その縁で銀行から安い金利で融資を受け、日本などの外国から技術導入を行いました。
つまり、政府に資金の面倒を見させ、自らは額に汗せず、外国人の技術者と自国の下請け業者を働かせて企業を成長させたということです。ホンダやソニーの創業者のように自ら油まみれになって試行錯誤を重ねながら会社を大きくしたわけではありません。
南朝鮮の受験の厳しさは日本どころの騒ぎではありませんが、これは科挙の試験に合格して両班になるのと同じなのです。このように両班の制度を通して朝鮮を見ると、よく理解できます。
モンゴルは西欧とインドを除く全ユーラシア大陸を支配しましたが、治安が良かったのでユーラシア大陸中で商業が大発展しました。フビライの作った紙幣がペルシャでも流通していたほどです。
朝鮮の高麗王朝もモンゴルの経済活動の恩恵を受けていましたが、李氏朝鮮になって、元に戻ってしまいました。高麗時代には馬や牛が曳く荷車があったのですが、李氏朝鮮時代には車輪を作る技術が失われ、荷車がなくなってしまいました。
家畜が曳く荷車がないので、重いものを全て背負子(チゲ)でかついで人間が運ばなければならず、商品の流通が衰えました。このようなわけで、李氏朝鮮は産業が衰えひどく貧しくなったのです。
朝鮮全体が貧しくなったために、支那から輸入された染料などの高価な品は両班しか使えず、庶民は白い服を着ていたのですが、それが汚れて灰色になっていました。日韓併合当初の朝鮮人を撮った写真では、彼らは薄汚れた白い服を着ています。
当時の李氏朝鮮が文明を退化させたのは、自国の防衛のためだったと考えられています。大陸と地続きなので、朝鮮が貧しければ支那人も略奪しに来ないだろうと考え、荷車の使用を禁止したというのです。その結果、車輪を作る技術が失われたのです。