朝鮮は貧しかったので、多数の少年と少女を支那に献上するしかなかった

朝鮮が貧しい国だという事実から、様々な朝鮮独自の社会現象が起きました。「貢女」というのも、その一つです。朝鮮は支那の属国でしたから、宗主国に対して貢物を奉らなければなりません。ところが貧しいので支那の皇帝や高官が喜ぶような物がないのです。

そこで歴代の朝鮮の王朝は、高価な物の代りに人間を奉っていました。具体的には、少年や美少女を奉っていたのです。少年は宦官用でした。男の生殖器を切除するのは非常に危険なので、誰もなりたがりません。支那では犯罪者や捕虜を宦官にしていました。このような事情で、支那人は朝鮮人の少年を贈られるのを喜びました。

美少女を贈る(貢女)というのは性奴隷にするためです。朝鮮では古くから貢女を贈る習慣があり、5世紀の高句麗や新羅も支那の高官に贈っていたようです。李氏朝鮮4代目の世宗は、フビライに日本侵略を提言した者ですが、朝鮮では非常な名君ということになっています。この彼は処女を支那人に奉るために、「十二歳以下の女子については婚姻を禁じる」という命令を出しています『朝鮮王朝実録』。

明は、定期的に貢女を選ぶ役職の「採紅使」を朝鮮に派遣していました。世宗の父の太宗は、身寄りがない少女や捨て子を集めて「貢女」にしたのですが、明の採紅使が怒って朝鮮人官吏を殴るという事件が起き、朝鮮人たちは狼狽しました。

太宗の息子の世宗は、貢女集めのために「進献色」という役所を設け、役人が全国を巡って、美少女を見つけ次第問答無用に連行しました。自分の可愛い娘を支那人の性奴隷にしたくはないので、民衆はそれを防ごうとして娘を幼いうちに結婚させました。そこで世宗は、12歳以下の娘の結婚を禁止したのです。

当時、何人ぐらいが貢女として支那に贈られたのかは、はっきり分かっていません。ただ、少し時代は後になりますが、清に対して貢女を贈った記録が『朝鮮王朝実録 仁祖実録』に書かれています。

李氏朝鮮は清に対して、黄金100両・白銀1000両・朝鮮人美女・牛・馬・豚など各々3000などの20余種を毎年献上したと記されています。朝鮮人美女は牛・馬・豚などと同列の家畜として扱われていますが、その数は毎年3000人でした。世宗のときもそのぐらいの数だったのではないでしょうか。

以下はひと続きのシリーズです。

10月8日 新羅は日本にも気を使った

10月9日 朝鮮人は、差別意識が旺盛である

10月10日 高麗王たちは、モンゴル化した

10月11日 元寇を撃退できたのは、運が良かったから

10月12日 日本に侵攻した元軍の兵士はほとんどが朝鮮人だった

10月13日 高麗王が、日本侵略をフビライに進言した

10月14日 鎌倉幕府が滅びたのは、元寇があったためだけではない

10月15日 高麗は、元軍兵士に従軍慰安婦を提供した

10月16日 李氏朝鮮の創設者は、女真人で元の将軍だった

10月17日 朝鮮の軍隊は、驚くほど弱かった

10月18日 朝鮮人は、現状分析をせず、抽象的な思考をして結論を出す

10月19日 朝鮮のお上は、ただ税金をとるだけ

10月20日 李氏朝鮮は、なかなか野蛮国の清に臣従しようとしなかった

10月21日 李氏朝鮮の両班は、利権争いばかりしていた

10月22日 派閥争いに敗れた朝鮮人は、残酷なやり方で処刑される

10月23日 朝鮮の支配層は、肉体労働を一切しない

10月24日 江戸時代に日本に来た朝鮮人使節は、泥棒をした

10月25日 李氏朝鮮は、自国の防衛のために、進んで貧しくなった

10月26日 朝鮮は貧しかったので、多数の少年と少女を支那に献上するしかなかった

10月27日 貢女も儒林も支那のスパイ組織

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