高麗の官僚には、文班(文官)と武班(武官)の二種類がありました。朝鮮で支配階級を両班と称するのは、ここから来ました。軍人を軽蔑する支那文化の影響で、次第に文班が武班に対して優位に立つようになりました。
高麗末期に、優位に立っている文班に対して武班が不満をつのらせ、クーデターを起こして、武班政権ができました(1194年)。これが鎌倉幕府と同じぐらい強かったのかと思ったら、大間違いです。
1231年にモンゴル軍が高麗に侵攻してきた時、国王と武班は王都を捨てて江華島に逃げ込みました。そして一般の朝鮮人には、「モンゴル軍が来たら島か山に逃げろ」と言っただけだったのです。江華島は本土から1キロも離れていないところですが、潮の流れが強く崖もあって、水軍を持たないモンゴル軍は手が出せませんでした。
モンゴル軍は都合6回朝鮮に侵入し、60万人の朝鮮人を鴨緑江以北の満州に連れて行って入植させ、農奴として働かせました。朝鮮半島の人口は、日本の三分の一ぐらいです。鎌倉時代の日本の人口が600万人ぐらいだから、当時の高麗の総人口は200万人と推測されます。その三割が満州につれて行かれたわけです。
1258年、江華島でクーデターが起こって武班が殺され、高麗王はモンゴルに降伏しました。フビライは大いに喜び、娘を高麗王の孫と結婚させました。フビライの娘が産んだ子が後に高麗王(忠烈王)となりました。
忠烈王を始め歴代の高麗王の母親が元の帝室出身のモンゴル人なので、みなモンゴル風の名前を持ち、普段は元朝の皇族と共に、夏は草原のテントで暮らし、冬は大都(北京)の宮殿でモンゴル式に暮らしていました。彼らは、自分の事をモンゴル人だと思っていたはずです。
古くは朝鮮の王の跡継ぎを「太子」と言っていましたが、モンゴルに降伏した後は、世継ぎを「世子」と称するようになりました。「世子」は、皇帝や王ではなく貴族の跡継ぎに使う言葉です。日本でも大名の跡継ぎを「世子」と呼んでいました。つまり、高麗王は王ではなく、単なる大名になったということです。