日本軍は、「敵は強いので明日攻めてこられたら負ける」と思っていました。そうしたら相手の方から撤退したので、結果的に勝ったのです。どうやら元軍と日本軍の戦力は伯仲していたようです。元も負けたとは思っていなかったようで、フビライは翌年も国書を日本に送って、朝貢を促しています。そこでうるさくなった幕府は、使者15人を処刑しました。
第二回目の弘安の役(1281年)では、元軍は北九州に上陸しようとしましたが、日本側が海岸に石塁を築いていたために上陸できず、博多湾内で日本軍と海戦をしています。結局、元軍は上陸できず北九州の沖を2カ月間うろうろしていて、最後に台風に遭遇して船が難破してしまいました。日本の勝因は、元軍の襲来に備えて石塁を築き、武士が奮戦したことでした。
鎌倉幕府は、元寇があったために滅びたと良く言われます。日本に侵入してきた元軍(大部分は朝鮮人)を撃退しただけで、新たな土地を獲得したわけではなく、奮戦した武士たちに与える恩賞がなかったので、武士たちの不満が高まったのだ、という説明です。
確かにそういう要素はありますが、それだけではありません。鎌倉幕府は公正な裁判をすることで武士たちから支持された政権なのに、それが不正な裁判を行ったから、武士たちにそっぽを向かれたのです。
武士たち(鎌倉幕府の御家人)は、平安時代に関東の荒野を開墾した地主の子孫です。「墾田永代私有令」という法律があって、開墾者はその土地の所有者のはずでした。しかし国司たちがなかなかその権利を認めようとしなかったために、武士たちは公正な裁判をする指導者を求めていました。彼らの望みを叶えたのが鎌倉幕府だったのです。
鎌倉幕府の行政組織でも一番重要なのが、武士の統制を行う侍所と裁判を行う問注所でした。鎌倉幕府は必死になって公正な裁判を行っていました。日本は800年も前に法治国家を目指していたのです。
ところが最後になって長崎円喜という執権の家来が賄賂を取って不正な裁判を行ったために、幕府が一挙に崩壊したのです。