李成桂は朝鮮の国王になったつもりでいましたが、明の皇帝はそれを認めず、「権知朝鮮国事」という称号を与えました。「権」は「代理」「仮」という意味ですから、「朝鮮の知事心得」というニュアンスです。
明の皇帝が、李成桂に国王の称号を認めなかったのは、李成桂が勝手に高麗王を廃したからです。朝鮮は支那の皇帝が冊封すべき従属国ですから、その廃位には皇帝の承認がいるはずで、その手続きを李成桂が省いたことを怒ったのです。
その後、歴代の「権知朝鮮国事」が明の皇帝に忠勤を励んだ結果、三代目の太宗のときにやっと国王の称号を認められました。このときに朝鮮は、明の皇帝から王国だと認められたのですが、支那人だけでなく朝鮮人自身も、朝鮮のことを「属国」と称するほどの独立性もなく、日本の「藩」程度のものだと考えていたようです。
というのは、李氏朝鮮時代の朝鮮人は、国王を「殿下」と呼んでいたからです。皇帝や国王など国家の君主であれば、「陛下」と呼ぶはずで、「殿下」は高位の貴族を指す言葉です。日本であれば、藤原氏の摂政関白などの臣下を「殿下」と呼んでいました。
李氏朝鮮の創始者である李成桂(1335年~1408年)の父親は、ウルスブハという名の女真人で、咸鏡南道(今の北朝鮮の東北部)で千人隊長として元に仕えていました。北緯39度以北の北朝鮮は、当時は元の領土になっていたのです。
しかし『李朝太祖実録』は、李成桂の先祖は新羅の大臣の家柄だったが、後に満州に行って元に仕えた、とウソをついています。国王が女真人という野蛮人だというのが恥ずかしかったのでしょう。
高麗は元に領土を削られて南朝鮮のみを領有していましたが、元朝が衰退したのに乗じて、北朝鮮に侵攻し領土にしました。そのためにもともと元の将軍だった李成桂は、高麗の将軍になったのです。そして「元を助けに行け」という高麗王の命令に逆らってクーデターを起こし、朝鮮の「権知朝鮮国事」になったわけです。