いつまでも服従しない朝鮮に腹を立てて、清軍がまた攻め込んできました(丙子胡乱)。この時は、朝鮮王は三跪九叩(三回ひざまずき、その都度三回ずつ頭を地面につける)という屈辱的な礼をさせられました。
1619年のサルフの会戦で、清と明の先行きははっきりしたのに、その後17年間も李氏朝鮮は明に未練を持ち続けました。この感覚は日本人には理解できません。今、支那とアメリカは世界の覇権を争っています。この勝敗の帰趨は誰が見ても明らかなのに、南朝鮮は態度をはっきりとさせません。400年前の朝鮮人の動向を考えると、今回もグズグズと判断を長引かせて、アメリカを激怒させるのでしょう。
朝鮮の政治というのは、派閥争いがすべてと言っても過言ではありません。李氏朝鮮の体制は、古代日本の律令体制をうんとグロテスクにしたものです。地方政治は派遣した官僚に年貢を徴収させるだけで、他に何をするわけでもありません。支那の属国なので重要な政策を独自にすることができません。従って都にいる両班がすることは、実質的には何もないのです。
日本の平安時代の武士たちは、自分の所領の所有権を確保し免税の特権を受けるために、摂政関白などの都の高官に所領を寄進して便宜を図ってもらい、その見返りになにがしかの年貢を払っていました。都の公家の方から見ると、出世して官位が高くなると、様々な利権が転がり込んできます。だから摂関家などでは兄弟間の地位争いが苛烈でした。
李氏朝鮮も基本構造が同じで、政権の座に着くと様々な利権が転がり込んできます。朝鮮の方が日本より貧しいので、利権のパイがずっと小さいのです。その少ない利権をめぐって争うので、派閥争いが日本では信じられないほど激しいのです。
秀吉の朝鮮出兵の時も、明と清のどちらに付くかということを決める時も、国をどうやって守るかというよりも、どうやって相手の派閥をやっつけるかの方にはるかに大きなエネルギーを割いていました。
反対派を論破するために使われたのが朱子学の教義です。朱子学は形而上学的な教義なので、自派に有利な空理空論を展開するのに好都合にできています。政策論争が現実を踏まえて展開されるのではないので、延々と不毛な議論が続きます。