東洋史学者の宮脇淳子博士は、李氏朝鮮の国家のアウトラインを次のように推測しています。「李氏朝鮮になったあと、高麗王の一族は皆殺しにされ、財産を巻き上げられた。高麗王朝の家来だった者で新しい王朝に帰順しなかった者たちは毒を飲まされて殺された。李氏朝鮮で支配者となった女真系の者たちが、以後500年間、ずっと支配者だった。この間、朝鮮半島では支配者と被支配者層はいっさい移動がなかった」(『悲しい歴史の国の韓国人』)
朝鮮史の専門家で筑波大学の古田博司教授は、「朝鮮に村はなかった」と言っています。日本では土着の人が助け合って代々住み着いていますが、朝鮮では税金を取りにきたら一族で逃げて流民になるので、定着村が非常に少ないのだそうです。お上は民を養うことを考えずに取るだけです。
李氏朝鮮の創始者の李成桂と彼の家来は、満州近くの北朝鮮北部出身の女真人でした。彼らは高麗の支配層で従わない者を皆殺しして、朝鮮全体をいわば占領したような形になりました。そして都から役人を派遣して地方の土着の豪族を抑えつけました。
この構造は、奈良時代の日本の律令制に少し似たところがあります。日本は国司を地方に派遣して年貢を徴収したり、農民を徴兵したりしていました。李氏朝鮮も支那の制度を真似した律令制を採用し、女真人の家来を地方に派遣して土着の朝鮮人を抑えつけていました。ただ日本の場合は、支配者も被支配者も同じ言葉を話す日本人だったので、支配が穏やかだったのに対し、李氏朝鮮の方は異種族が過酷な支配を行いました。
日本では、鎌倉時代になって土着の豪族が武士になり、その地方を自分たちで治めるようになりました。もともと同じ民族だし一緒に働いたり戦ったりした仲間なので、武士の支配はかなり合理的なものでした。武士は百姓から年貢を徴収するが、川の堤防を築いたり、道路を補修したり、市場を保護したりして、農民の収入が増えるような政策を採っていました。また、農民を足軽に雇っていったん徴収した年貢を彼らに還元してもいます。
要する戦国時代の大名は、領民が反乱を起こさないように彼らの要求も聞き入れていました。このような戦国大名が朝鮮に攻め込んだ時に見たのは、奈良時代の律令制をグロテスクにした、支配者と被支配者が互いに憎み合い、騙し合っている社会だったのです。