李氏朝鮮は、なかなか野蛮国の清に臣従しようとしなかった

朝鮮の農民は土地に土着していないので、おらが村さを守る気がないし、都の両班も民を養う気がありません。秀吉は大名たちの志気を高めるために朝鮮の土地を領土に与えようとしましたが、大名たちが嫌がりました。彼らにしたら、領地を支配する組織がないし、足軽として徴兵すべき農民が弱すぎるので、領地をもらっても迷惑だったのです。

日本軍の方が明軍や朝鮮軍より圧倒的に強かったので、朝鮮の土地を大名の領地にすることもできました。ところが日本軍が朝鮮に何の未練もなく撤退していったのは、当時の大名たちが朝鮮に何の魅力も感じなかったからです。

女真人は、満州から北朝鮮にかけて古くから住んでいた狩猟民族です。4世紀頃から7世紀にかけてこの地域にあった高句麗も女真人が建てたものです。その後、北朝鮮に住んでいる女真人は、高麗や李氏朝鮮を建国し、南朝鮮にいた韓人と混血していきました。

満洲にいた女真人は、12世紀に金を建国し支那の北部も支配していましたが、13世紀にモンゴル人に滅ぼされました。17世紀になって、アイシンギョロ・ヌルハチという部族長が勢力を伸ばし、満州を統一して清王朝を建国し、支那に侵入し始めました。この頃から、女真人のことを満州人とも呼ぶようになりました。

1619年に明と清が戦いました(サルフ会戦)。明の属国だった李氏朝鮮は明に援軍を派遣したのですが、まじめに戦う気などありません。国王は派遣軍の将軍に「状況判断を正確にしろ」と命令しました。そこで将軍は明が負けたのを見て、自軍の目付け役に来ていた明の将軍を殺し、清に降伏しました。しかしその後も、朱子学から見て「蛮夷」の清に積極的に臣従しようとはしませんでした。

ヌルハチが死んで息子のホンタイジが即位すると、いつまでも自分に臣従しないことを怒って、朝鮮に侵攻しました(1627年)。これを朝鮮人は「丁卯胡乱」と呼んでいます。「胡」は支那人が遊牧民族を指す蔑称です。「乱」は普通内乱のことを指し、対外戦争のときは使いません。

朝鮮人の秩序感覚では、朝鮮の方が偉いと思っているので、「胡」が主人である朝鮮に対して内乱を起こした、ということなのでしょう。なお、豊臣秀吉の朝鮮出兵のことを、朝鮮人は「壬辰倭乱」と言っています。

以下はひと続きのシリーズです。

10月8日 新羅は日本にも気を使った

10月9日 朝鮮人は、差別意識が旺盛である

10月10日 高麗王たちは、モンゴル化した

10月11日 元寇を撃退できたのは、運が良かったから

10月12日 日本に侵攻した元軍の兵士はほとんどが朝鮮人だった

10月13日 高麗王が、日本侵略をフビライに進言した

10月14日 鎌倉幕府が滅びたのは、元寇があったためだけではない

10月15日 高麗は、元軍兵士に従軍慰安婦を提供した

10月16日 李氏朝鮮の創設者は、女真人で元の将軍だった

10月17日 朝鮮の軍隊は、驚くほど弱かった

10月18日 朝鮮人は、現状分析をせず、抽象的な思考をして結論を出す

10月19日 朝鮮のお上は、ただ税金をとるだけ

10月20日 李氏朝鮮は、なかなか野蛮国の清に臣従しようとしなかった

10月21日 李氏朝鮮の両班は、利権争いばかりしていた

10月22日 派閥争いに敗れた朝鮮人は、残酷なやり方で処刑される

10月23日 朝鮮の支配層は、肉体労働を一切しない

10月24日 江戸時代に日本に来た朝鮮人使節は、泥棒をした

10月25日 李氏朝鮮は、自国の防衛のために、進んで貧しくなった

10月26日 朝鮮は貧しかったので、多数の少年と少女を支那に献上するしかなかった

10月27日 貢女も儒林も支那のスパイ組織

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