モンゴルは、文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の二度にわたって日本に襲来しました。文永の役の時のモンゴル軍の総司令官はヒンドゥ(忻都)という名前です。これはモンゴル語でインド人という意味で、彼はインド人でした。
副司令官は洪茶丘ですが、モンゴル軍が満州につれて行った朝鮮人の息子で、朝鮮系モンゴル人二世です。彼は弘安の役の時もモンゴル軍の副司令官になっています。先に満州に拉致された朝鮮人は、後で支配下に入った高麗の朝鮮人より元朝での位が高く、高麗にいた朝鮮人に対しては、先輩面してモンゴル人のように振る舞っていたのです。
第一回の文永の役(1274年)の時の元軍の編成は、15000人のモンゴル兵と8000人の高麗兵及び7000人の高麗人水夫の合計3万人ぐらいでした。総司令官と副司令官がモンゴル人ではないことからして、15000人のモンゴル兵というのもほとんどがモンゴル人ではありません。
モンゴル人が拉致して満州で農奴にしていた朝鮮人はモンゴル人とされていたので、15000人のモンゴル兵のほとんどが朝鮮人二世でした。モンゴル人は海が怖くて、ほとんど参加していません。つまり元軍3万人の大部分が朝鮮人だったのです。
第二回の弘安の役(1281年)は、朝鮮から襲来した東路軍と南支那からやってきた江南軍の二方面軍からなっていました。このうち東路軍は、15000人のモンゴル兵と10000人の高麗兵及び17000人の高麗人水兵の合計4万人程度でした。その内容は第一回の文永の役と同様に、大部分が朝鮮人でした。
江南軍は約10万人ですが、そのほとんどは元に滅ぼされた南宋の兵士でした。滅ぼした国の兵士は、いつ反乱を起こすか分からないし、そうかといって解雇したら盗賊やゲリラになります。そこで元は、旧南宋軍の兵士を日本に遠征に行かせることにしました。
日本征服が成功すれば彼らを日本に土着させるつもりで、船には農具も積んでいました。また日本軍に負けで全滅しても、それはそれで構わないのです。支那人はこういう発想をします。元に仕えた支那人は多かったので、このような厄介な兵士の解決策をフビライに進言したのでしょう。