元寇を撃退できたのは、運が良かったから

これから、元寇の話をします。
日本は13世紀後半の鎌倉時代に、二度にわたる元寇を撃退したわけですが、事情を詳しく調べて見てみると、「日本は運が良かったな」とつくづく感じます。鎌倉幕府は、実質的には関東の武士たちが作り上げた政権で、源頼朝は飾りでした。そして出来た当初から、有力な武士団の間の勢力争いや朝廷との権力争奪で合戦が多発し、最終的に北条氏が勝利を収めました。

1192年 源頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府を開く
1221年 承久の変で、朝廷軍を粉砕
1200年~1247年の間に有力な御家人が次々と北条氏によって滅ぼさた

モンゴル人は、敵の内情を探って、敵に内紛を起こさせるのが得意だったので、もしも元寇の時点で北条氏に対抗できる強力な武士団がいれば、そのような謀略を仕掛けられる恐れがありました。しかし、そのようなライバルはすでに粛清されていました。

また、鎌倉幕府は高麗の武班政権と違って本物の武人政権だったので、軍事を国策の最優先課題にしていました。さらに当時は朝廷の組織も機能していたので、九州の大宰府から朝廷を通じて、大陸の情報が入ってきました。挙国一致体制が可能だったのです。

1268年 高麗の使者が元の国書を携えて来日
・    北条時宗が幕府の執権となる(18歳)
1272年 二月騒動
1274年 文永の役 第一回目の元軍日本侵攻

元の国書が日本に届いた時に、北条時宗が18歳で幕府の執権になったのですが、彼は非常に優秀な人物だなあ、と感心します。彼は元軍の実力をちゃんと理解していて、元軍が本土に侵入した場合に備えて、天皇陛下や上皇を鎌倉に移す作戦も立てていました。

時宗は北条氏の嫡流だったのですが、父親が若くして亡くなりました。そのとき時宗はまだ幼かったため、執権の座は北条氏の傍流に流れて行きました。そのために、18歳で時宗が執権になったことに納得しない北条一族もいました。特に反主流派の名越一族と時宗の腹違いの兄が結びついて、時宗に対する反対勢力になりました。そこで元寇の二年前に時宗は、これらの不満分子を皆殺しにして(二月騒動)挙国一致体制を作りました。

以下はひと続きのシリーズです。

10月8日 新羅は日本にも気を使った

10月9日 朝鮮人は、差別意識が旺盛である

10月10日 高麗王たちは、モンゴル化した

10月11日 元寇を撃退できたのは、運が良かったから

10月12日 日本に侵攻した元軍の兵士はほとんどが朝鮮人だった

10月13日 高麗王が、日本侵略をフビライに進言した

10月14日 鎌倉幕府が滅びたのは、元寇があったためだけではない

10月15日 高麗は、元軍兵士に従軍慰安婦を提供した

10月16日 李氏朝鮮の創設者は、女真人で元の将軍だった

10月17日 朝鮮の軍隊は、驚くほど弱かった

10月18日 朝鮮人は、現状分析をせず、抽象的な思考をして結論を出す

10月19日 朝鮮のお上は、ただ税金をとるだけ

10月20日 李氏朝鮮は、なかなか野蛮国の清に臣従しようとしなかった

10月21日 李氏朝鮮の両班は、利権争いばかりしていた

10月22日 派閥争いに敗れた朝鮮人は、残酷なやり方で処刑される

10月23日 朝鮮の支配層は、肉体労働を一切しない

10月24日 江戸時代に日本に来た朝鮮人使節は、泥棒をした

10月25日 李氏朝鮮は、自国の防衛のために、進んで貧しくなった

10月26日 朝鮮は貧しかったので、多数の少年と少女を支那に献上するしかなかった

10月27日 貢女も儒林も支那のスパイ組織

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