1950年6月25日に、北朝鮮軍が38度線を越えて南に侵入したことにより朝鮮戦争が勃発しました。金日成が親分のスターリンに南への侵攻の許可を求めたところ、あまり乗り気でなく「毛沢東がウンと言ったら侵攻しても良い」と返事をしました。何でスターリンがこんな返事をしたのかは資料がないので分からないのですが、大嫌いな毛沢東とアメリカの両方が傷つくのも悪くないと思ったのではないでしょうか。
金日成が毛沢東に会いに行くと、毛沢東は「OK、援軍も出してやる」と言いました。彼がOKした理由は推測が容易です。支那は内戦が終わったばかりで、軍隊には自分に反抗的な部隊が多くありました。これが戦争でみんな死んだら良いと考えたのです。支那人は、こういう発想をします。元が南宋を滅ぼした時、降伏した南宋の軍隊が邪魔だったので、日本に攻め込ませ、厄介払いをしました。これが元寇です。
また朝鮮は伝統的に支那の属国でした。だから毛沢東には、朝鮮全土を服従させるのが当然だ、という考えもあったでしょう。
北朝鮮軍は38度線を越えて3日後の6月28日にソウルが陥落しました。このとき南朝鮮軍は、北朝鮮軍の追撃を防ぐために、漢江にかかっている橋を爆破したのですが、まだ市民や軍隊が多数市内に残っていました。要するに南朝鮮軍は市民を守る気がなく、逃げ出したということです。
ソウルに入った北朝鮮軍は、そこで進軍を止めて3日間市内を略奪し、夜は大宴会をしていました。南も北も、朝鮮軍は軍隊というよりは、山賊と呼んだ方が実態に合っているようです。北朝鮮軍の進軍はその後も続き、9月には南朝鮮軍と国連軍(実質的にはアメリカ軍)は南朝鮮の南西の片隅にまで追い詰められました。
9月に南朝鮮軍とアメリカ軍の反撃が成功し、10月に北朝鮮軍を38度の境界線まで押し返しました。この時に毛沢東は国連軍司令官のマッカーサーに対し、「38度線を超えるな」と警告しましたが、マッカーサーはそれを無視して進撃を続け、11月には北朝鮮軍を満州との国境近くまで押し返しました。
その時に支那軍が参戦し、前線は38度線近くにまで押し戻され、その後こう着状態になって、1953年2月に停戦協定が成立しました。マッカーサーは、政治的な才能がなく、当時の政治状況を理解しないまま、功をあせっていたようです。
以下はひと続きのシリーズです。
11月9日 敗戦後に、手のひらを返したように、朝鮮人は反日になった
11月12日 アメリカ軍は、朝鮮人が自立できないことを知っていた
11月13日 南朝鮮は、日本に逃げてきた済州島民の引き取りを拒否した
11月14日 毛沢東は、自分に反抗的な軍人を始末するために、朝鮮戦争に参戦した
11月15日 朝鮮戦争当時の指導者は、個人的な利益のために戦争をした
11月16日 アメリカの支配者は、朝鮮戦争に勝つことを望んでいなかった
11月19日 なぜ朝鮮人は反日なのか、専門家の意見を紹介する
11月21日 実務を行っていた「親日派」を弾圧するわけにはいかなかった
11月22日 軍人政権時代は、南朝鮮の独立は自らが勝ち取ったものではない、と分かっていた
11月23日 為政者を選挙で選んだからといって、先進国になれるわけではない
11月24日 朝鮮は、民主国家になる二つの条件の両方を欠いている
11月25日 朝鮮人は、朝鮮は世界の中心だ、と考えるようになった