占領下の日本の総理だった吉田茂が、1952年の日本独立後も総理を務めたことで、日本の再軍備問題の行方が方向付けられました。日本国憲法は、占領中の1946年に作られました。国家が占領され主権を失っている時に、主権国家たる日本の基本構造を規定する憲法を作る、というのは悪い冗談です。
吉田茂は、経済復興を最優先にしていたために、日本の再軍備に反対でした。そのために無効のはずの「日本国憲法」を、1952年の独立時に無効宣言せずに、あたかも合法的に成立しているという態度を維持しました。ここから今の深刻な憲法問題がうまれたのです。
「日本国憲法」の問題点には、この前のシリーズ(8月24日~9月11日)に書いたので、これを読んでください。
朝鮮戦争における朝鮮人の死者は南北合わせて300万人です。大東亜戦争で死んだ日本人が300万人ですから同じくらいですが、人口が日本の半分以下なので、ものすごい比率になります。ちなみに支那兵の死者は100万人、アメリカ兵の死者は5万人です。さらに日韓併合時代に作られた工場やインフラの大部分が破壊されました。
北の金日成も南の李承晩も朝鮮戦争が停戦になった後、それぞれ独裁政治に戻っていきました。一体彼らは、何のために戦争をしたのでしょう。
金日成は、ライバルを粛清しました。まず自分の敗戦責任を追及しそうな軍の幹部を殺し、次に抗日ゲリラ活動や社会主義運動をやった実績のある者を殺しました。自分はソ連から入ってきただけなのに、彼らは朝鮮国内で頑張っていたわけで、煙たかったのです。
次に、満州でゲリラをやっていた者たちを粛清しました。金日成は満州でゲリラ活動をやっていたとウソをついていたので、彼らを活かしておいては自分の嘘がばれるからです。そして最後にソ連から一緒にやってきた者たちを粛清しようとしたので、彼らはソ連に逃げて行きました。
南の李承晩は金日成ほど世渡りが上手でなく、李承晩ラインを勝手に設定したり竹島を奪ったりして日本を怒らせました。またやくざを使って反対派を弾圧したりして国内でも不評になりました。そして1960年のデモによって下野し、ハワイに亡命しました。
以下はひと続きのシリーズです。
11月9日 敗戦後に、手のひらを返したように、朝鮮人は反日になった
11月12日 アメリカ軍は、朝鮮人が自立できないことを知っていた
11月13日 南朝鮮は、日本に逃げてきた済州島民の引き取りを拒否した
11月14日 毛沢東は、自分に反抗的な軍人を始末するために、朝鮮戦争に参戦した
11月15日 朝鮮戦争当時の指導者は、個人的な利益のために戦争をした
11月16日 アメリカの支配者は、朝鮮戦争に勝つことを望んでいなかった
11月19日 なぜ朝鮮人は反日なのか、専門家の意見を紹介する
11月21日 実務を行っていた「親日派」を弾圧するわけにはいかなかった
11月22日 軍人政権時代は、南朝鮮の独立は自らが勝ち取ったものではない、と分かっていた
11月23日 為政者を選挙で選んだからといって、先進国になれるわけではない
11月24日 朝鮮は、民主国家になる二つの条件の両方を欠いている
11月25日 朝鮮人は、朝鮮は世界の中心だ、と考えるようになった