これから、日本の明治維新は沖縄を守ろうとする運動から始まった、ということを説明します。長州藩は思想面で日本をリードし、薩摩藩は富国強兵という実務面で明治維新を主導しました。明治維新後に日本が推進した富国強兵策は、薩摩藩が始めたやり方を、その後に全国的に展開したのです。その薩摩藩は、沖縄を外国から守るために、自藩の富国強兵を始めたのです。
1844年に、フランス軍艦アルクメーヌ号が沖縄に来航しました。ペリーが黒船を率いて浦賀にやってきた時よりも9年前です。艦長のデュ・プランは、沖縄に和親・通商・キリスト教布教の認可の三つを要求しました。
しかし、琉球王国は通商とキリスト教布教の認可を拒否しました。幕府がそれを禁止していたからです。つまり琉球王国は沖縄が日本の一部であることを自認していたわけです。デュ・プラン艦長はいったん沖縄を退去しましたが、2年後の1846年になると、クレオパトール号など3隻のフランス軍艦が再訪し、セシーユ総督が条約締結を要求しました。
薩摩藩は幕府と対応を協議し、下記のような方針を出しました。
1)沖縄は、表面上は清国の属国だが内実は薩摩の支配下になる。このことは、清もフランスも世界中が承知している
2)フランスの要求を全面的に拒否したら、フランスは清と直接交渉して、沖縄との貿易の許可を得るだろう。そうしたら、薩摩藩は沖縄の支配権を失うことになる
3)沖縄とフランスの通商を、幕府は認可してほしい
このような事情で、琉球王国とフランスは条約を締結しました。フランスとの交渉の主体は薩摩藩であって琉球王国ではありません。ところが表面上は、フランスと琉球王国との間で締結された条約なので、表面上は琉球王国が主権国家であるかのように見えます。中国と日本の中の沖縄独立論者は、琉仏条約を沖縄が日本でない証拠だと主張しています。
1867年のパリ万博に、薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」として参加しています。沖縄と薩摩は一体となった独立国だと主張しているわけです。このように、幕末の時にすでに日本は、沖縄を守ろうと努力していました。ところが近年、日本政府は中国に対して腰が引けています。例えば、安倍内閣は閣議決定で、下記のように述べています。
沖縄についていつから日本の一部であるかということにつき確定的なことを述べるのは困難であるが、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置の時には日本国の一部であった
幕末の時点で沖縄が日本だったことをフランスが認めていた、ということに言及していないのです。
以下はひと続きのシリーズです。