沖縄の王様は日本人

弥生時代から平安時代ぐらいの時期の沖縄の歴史はよくわかっていません。地方豪族たちが次第に統合され、12世紀終わりから、次々に三つの王国(北山王国、中山王国、南山王国)が並立するようになりました。なお沖縄の地方豪族を按司(アジ)と言いますが、これは「アルジ」がなまったもので、日本語です。

中山王国の初代の舜天王は、源為朝(頼朝、義経の叔父)の息子だということが沖縄の正史である『中山世譜』に書かれています。源為朝(1139年~1170年)は源氏の武将で、1156年の保元の乱では崇徳上皇側に味方して敗れ、伊豆大島に流されました。

彼は伊豆諸島を支配するようになりましたが、追討軍に攻められて自殺したことになっています。ところが『中山世譜』では、彼は伊豆を脱出して沖縄に来て中山王になった、と記しています。

中山王国の察度王は、1372年に初めて明に朝貢し、その後他の二王国も明に朝貢しました。沖縄の日本人はまずは自分たちの力で王国を築き、それから200年ぐらい経って、貿易の利を求めて明に朝貢しました。

しかし中国は朝貢前の200年間を無視して、いきなり明が三人の王を冊封(国王に任命した)ということから歴史の説明を始めています。そして明の皇帝が沖縄の王を冊封したのだから、沖縄は中国領だ、という主張をしています。

1429年に南山王国は他の二王国を滅ぼして沖縄を統一しました。その後琉球王国が明との朝貢貿易を続けました。

江戸幕府は、明との国家どうしの貿易を望んでいましたが、明に断られました。そこで、一方では長崎の出島で民間業者どうしの貿易を行わせる一方で、琉球王国の朝貢貿易ルートも活用しようとしました。

そこで1609年、薩摩藩は幕府の了解のもと、3000人の兵を沖縄に送りました。琉球王は薩摩藩主に臣従して領土を保ちました。明と貿易をするには、琉球が独立しているという外形が必要だったので、琉球王国を存続させたのです。この結果、琉球王国―薩摩藩―幕府が関与した貿易ルートが出来ました。

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