文革で二千万人が死んだ

毛沢東が始めた文革が、その後どうなったかを説明します。

中国共産党幹部の権力基盤は、中国共産党のトップ(中国共産党主席)、軍のトップ(党中央軍事委員会主席)、国家のトップ(中央人民政府主席)の三つです。毛沢東はこの三つのすべてを兼務していましたが、後に国家のトップの地位を劉少奇に譲りました。

1969年の共産党の党大会で、毛沢東は劉少奇を失脚させ、林彪を自分の後継者に指名しました。ところが空席になった国家のトップの座に林彪を就けず、そのポジションを廃止してしまいました。林彪はこのような中途半端な状態に耐えられず、国家のトップのポジションを復活させ、その地位に就こうとしました。

そこで今度は、毛沢東と林彪の間が険悪になりました。1971年に林彪は突然軍用機に乗ってソ連に亡命しようとしましたが、軍用機が墜落し、林彪は死にました。林彪が毛沢東を暗殺しようとして失敗したために、慌てて逃げようとしたらしいのです。毛沢東と林彪の争いも社会主義に関する違いからきたのではなく、単なる権力争いです。毛沢東の権力欲から起きた文革により、2000万人の中国人が死にました。

紅衛兵たちは、最初は毛沢東の指示通りに実権派を狙っていました。しかし、そのうちに気に入らない者すべてを「反革命分子」とするようになりました。学校の先生・芸術家・小金を持っている者・医者や技術者など高等教育を受けた者です。また、内ゲバが起きて、互いに銃撃戦をするようになりました。

そこで、紅衛兵を持て余した毛沢東は、彼らを田舎に追い払うことを思いつきました。「若者は農村の支援に行き、農民から革命精神を学べ」という名目で、1600万人の子供が下放されました。彼らは高校で学ぶべき時期を無為に過ごしたため、大人になっても社会に適応できず、中国社会の負担になっています。

このような大混乱のさ中の1976年に毛沢東が亡くなりました。このような騒ぎに嫌気がさした中国人は、彼の死後すぐに文化大革命を終わらせました。結局、文化大革命は中国に良いことを何ももたらしませんでした。そして、その後に鄧小平が出てきて、改革開放路線をとり、中国は経済発展しました。

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