文化大革命は権力闘争

前回まで、習近平政権がいま行っていることを説明してきました。これは、毛沢東が行った文化大革命とそっくりだ、ということを言う人が多いです。そこで、文化大革命とは何だったのか、をざっと見ていこうと思います。

文化大革命は、55年前の1966年に毛沢東が始め、彼が死ぬまで10年間続いた中国の政治的な動乱です。50歳代以下の人は、文革に対して具体的なイメージを持てないと思います。

中国で文革が行われていた時、日本では新左翼の運動が盛んで、東大闘争をしたり様々な分派が内ゲバをしたりしていました。そして新左翼の多くが中国の文革を賛美していました。朝日新聞などのマスコミも、文革を社会主義革命だとして肯定的な記事を書いていました。

このような経緯で、多くの日本人は文革を社会主義革命だと誤解してしまいました。また「文化大革命」という名称も日本人を混乱させました。「文化」と「革命」という二つの言葉が素直に結びつかず、この事件を理解する入り口で道に迷ってしまったのです。

文革は、一言でいえば、毛沢東と実権派(劉少奇や鄧小平など自分に反対する共産党幹部たち)との権力闘争です。毛沢東は社会主義的な言葉を使って庶民を味方につけただけのことです。社会主義は格差をなくすことを目的にしているので、社会主義を唱えると、庶民を味方にするのに有利です。

毛沢東は子供を「紅衛兵」と呼んでおだてて、彼らをライバル潰しに利用したり、文化人をつるし上げたりもしたので、余計に文革の本質を分かりにくくなっています。

文革(文化大革命)を始めた毛沢東がどのような人物だったかについて、良い資料があります。毛沢東の主治医だった李志綏(リ・チスイ)は、毛沢東の死後アメリカに移住し、そこで『毛沢東の私生活』(1994年出版)という本を出版しました。

この本は、中国では発禁になっています。李志綏がテレビのインタビューで「毛沢東についてもう一冊伝記を書く」と発言したところ、その2週間後に息子の家の風呂場で死んでいるのが発見されました。

李志綏によると、毛沢東は時間があれば、中国の歴史書を読んでいました。そこには、お互いに相手を騙して蹴落とそうとする人物ばかりが出てきます。毛沢東が中国の古典を好むのは、周囲の者たちを出す抜く方策のヒントを得る為でした。

また、毛沢東が性病にかかったことがありました、放置すると多くの愛人に移すので、主治医の李志綏は治療をしようとしましたが、毛沢東は、自分の治療を拒否しました。自分が痛痒を感じないので特に問題はない、というのです。

1956年にソ連の独裁者のスターリンが死に、フルシチョフがソ連のボスになったのですが、彼はスターリンの独裁体制を批判し、ソ連を集団指導体制にしました。中国の独裁者だった毛沢東としては、このようなソ連の集団指導制を容認するわけにはいきません。

そこで毛沢東は、中国の社会主義化を進めることで、「中国の方がソ連よりも正しい社会主義体制である」ということを証明し、ひいてはソ連の集団指導体制より毛沢東の独裁の方が優れている、と主張しようとしました。

そこで毛沢東は、私有財産制度を廃止するなど社会主義化政策を強化しました。これが大躍進運動ですが、大失敗して約5000万人が餓死しました。

大躍進運動の大失敗によって、共産党内では毛沢東を批判する声が高まってきました。このままでは自分の地位が危ないと思って、毛沢東は実権派(劉少奇や鄧小平など自分に反対する幹部たち)に権力闘争を仕掛けました。その時に毛沢東は、まず文化人を「精神が腐っている」とやり玉に挙げました。最初に文化を持ち出したので、この権力闘争を「文化大革命」というようになりました。

つまり、文革は革命でも何でもなく、毛沢東と実権派との間の権力闘争なのです。いま習近平は、江沢民派などと権力闘争を行っています。この構図が文革と似ています。また政敵に対する攻撃の仕方も似ているので、多くの人は、習近平も文化大革命を仕掛けている、と感じているわけです。

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