ミルは、キリスト教も他の宗教と同じく完全ではない、と考えた
ミルは歴史上の事実を述べて、「完全に正しい宗教や思想などない。その時々の人々の考え方にどうしても影響される」と書いています。「だからキリスト教といえども、完全な真理を説いているわけではない」と書いています。
ミルは歴史上の事実を述べて、「完全に正しい宗教や思想などない。その時々の人々の考え方にどうしても影響される」と書いています。「だからキリスト教といえども、完全な真理を説いているわけではない」と書いています。
ミルは、思想と言論の自由が最大限に認められるべきだと主張しています。そうなると「Freedomはキリスト教徒に限定される」という前提が邪魔になります。だからミルは「文明国」がどこかということに触れなかったのです。
ミルは、効用という基準で倫理問題を判断しなければならない、と主張しています。つまり、個人の行動が他の人々の利害に関係するときは、個人の自発性...
日本が裁判権や関税に関する「自主性」を回復するには、日本は文明国にならなければなりませんでした。そしてそのために、日本人はFreedomの精神に基づいて行動する必要がありました。
ミルは『自由論』の中で、「いうまでもないことだと思うが、自由主義の原則は、成熟した大人のみに適用される」と書いています。
国民が支配者を選挙で選ぶ時代になると、支配者と被支配者が一体化してきたので、支配者の権力を制限する意味が無くなり、多数派が国家の支配権を握るようになりました。従ってこの時代になると、多数派の専制から少数派を守ることが重要になってきます。
明治初期の日本人は、政府高官も自由民権論者も多くの一般人も、自由主義を原則として国家を運営していこうとしていました。ただし政治的な自由の実施...
明治初期の日本は、不平等条約の改正を目指して、「日本は文明国なのだ」と主張する「文明開化」を推進していました。従って、イギリスやアメリカなどの「文明国」が採用している自由主義の原則を日本政府が頭から否定するはずがありません。
多くの方は、「富国強兵」「天下国家」と自由主義の相性は悪いのではないか、と思われるかもしれませんが、それは誤解です。キリスト教の信仰から生まれたFreedomには「富国強兵」の要素があります。
東京商法会議所は、経済問題に限ってのことではありますが、世論を集約する場所であり、「経済的な国会」のような機能がありました。この東京商法会議所が変遷を経て今の経団連になっているわけですから、経団連が「天下国家」を論じるのは当然です。