日露戦争後も、大アジア主義は健在だった
日本は日清戦争(1894~1895年)と日露戦争(1904~1905年)に勝ち、支那や朝鮮との差が歴然としました。また、支那・満州・朝鮮に日本は権益を獲得しました。このような現実を踏まえて、日本がアジアのリーダーになってアジア諸国の連携を推進し、欧米列強に対抗しよう、というように大アジア主義は変わっていきました。
日本は日清戦争(1894~1895年)と日露戦争(1904~1905年)に勝ち、支那や朝鮮との差が歴然としました。また、支那・満州・朝鮮に日本は権益を獲得しました。このような現実を踏まえて、日本がアジアのリーダーになってアジア諸国の連携を推進し、欧米列強に対抗しよう、というように大アジア主義は変わっていきました。
東アジアにはもともと国境の概念がないので、日本人は日本と支那や朝鮮との連携を、大名たちの同盟関係のような感覚で考えていました。
カルロス・ゴーンが二度目の保釈をされました。その保釈条件に「妻のキャロルと逢ってはならない」というのがありました。私はこれを聞いた時に、「こ...
アメリカが支那に対して非常に厳しい態度に出ているのに対し、日本は煮え切らない態度をとっています。 経済界から話をすると、経団連などは今...
共に連携して欧米に対抗しようという大アジア主義が根底にあるために、日本人は一方で支那の横暴に対して激怒しながら、もう一方で仲良くしようという何とも煮え切らない態度をとったのです。こういう甘い態度で支那からなめられ、終には大東亜戦争に繋がっていったのです。
19世紀末から20世紀前半の支那にはまともな国家がなく、自国民や居留する外国人を守ろうとせず、むしろ積極的に略奪をしようとしていました。そこで欧米列強や日本はしかたなく支那に租界を設け、自国の軍隊と行政官を駐在させていました。
侵略というのは、一つの国家が別の国家に仕掛ける行為です。では支那に国家などというものがあったのでしょうか。そういうことも考えなければなりませんが、学者たちがそういう検討をした形跡がありません。
勝海舟・吉田松陰・島津斉彬という優秀な人物が誤って大アジア主義を唱えるような状況だったので、その他の日本人もほとんどが大アジア主義者になり、そのままの状態で明治になりました。明治になって政府が支那や朝鮮と実際に交渉するようになりその実態を知るにつれて、鋭い日本人は「大アジア主義」をおかしいと思うようになりました。
江戸時代の日本人は、支那は儒教の教え通りの「聖人の国」であり、儒教は日本の神道のようなものだ、と誤解しました。さらに、支那では未だに仏教が盛んに信仰されている、とも勘違いをしました。要するに、「支那人は、日本人とほとんど同じような考え方をしている」と、とんでもない思い違いをしたのです。
江戸時代、荻生徂徠(1666~1728年)という儒教の有名な学者がいました。彼は支那に留学したかったのですが、鎖国制度のために果たせませんで...