文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった

文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった

文化大革命の末期になると、毛沢東も紅衛兵を持て余し、彼らを田舎に追放することにしました。これが「下放」という制度です。表向きは、田舎の農村で農民たちと生活を共にすることで思想改造を図るということにしました。都会の高校生など仕事の役に立たず、理屈をこねるだけで、農民にとって迷惑至極なものでした。

毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた

毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた

毛沢東は、「支那こそが本当の共産主義国家だ」ということを証明しようとしました。共産主義は、私有財産を否定し全ての生産設備を国有化する、というのが本筋です。農業も個々の農家の土地を取り上げて、多くの家族が一緒になって集団で行うべきなのです。そこで毛沢東は、農業の集団化を行うことにしました。

毛沢東の死は、政治的な大事件だった

毛沢東の死は、政治的な大事件だった

毛沢東の死去という事実自体が非常に大きな政治的事件ですから、最高幹部や側近たちはその事件によって自分が不利にならないように警戒していました。中でも、自分の判断ミスで毛沢東が死んだという責任を負わないように最大の注意を払っていました。