昭和初期、日本軍と支那の軍隊はしばしば戦闘を行っていました。このように書くといかにも日本軍は、支那政府のちゃんとした軍隊と戦ったかのような印象を受けます。しかし実態は、支那の軍閥と戦っていたのです。
軍閥とは簡単に言えば、清朝滅亡して国家が消滅した後、自然発生した山賊の中の大規模なものを指します。彼らの多くは名目だけの政府から軍隊の司令官などに任命されていたので、形式的には政府軍でした。やがて蒋介石率いる国民党が他の軍閥を打倒して支那を統一したように外からは見えますが、これも実態は軍閥の集合体でした。
支那の軍閥が租界を略奪しようとしてきたので、そこを守っている日本軍と戦闘になった、というのが実態です。ところが敗戦後に、学校やマスコミは「日本は支那を侵略した」と誤ったことを教え続けました。
このために多くの日本人は、日本は支那を侵略して多くの支那人を殺した、と思い込んでいます。実際にはどういうことが起きていたのかを、いくつかの例を挙げて説明します。
1920年代、蒋介石は支那の南部を支配していました。そして北方の軍閥を滅ぼして支那を統一しようとして、1927年(昭和2年)に周辺の軍閥を集めて、北方に向かって軍隊を進発させました。これを「北伐」と言っています。
1928年(昭和3年)、蒋介石率いる北伐軍は、山東省の済南(さいなん)市近郊で北方の軍閥軍を撃破し、済南市に入城しました。この町には日本人居留民が多く住んでいたので、日本は軍閥どうしの戦闘によって日本人に被害が及ぶことを心配して、3000名の日本軍を駐屯させていました。
済南市を占領した蒋介石は、日本軍の司令官に対して、「治安は支那軍によって確保することを保障するので、日本軍は撤去して欲しい」と要請しました。そこで日本軍が済南市を退去したのですが、その後蒋介石の軍隊に編入されていた軍閥が居留地を襲って略奪し、日本人を大虐殺しました。そこで日本軍はこの軍閥軍を撃破しました。