大乗仏教は、修行しなくても心の持ち方が立派であれば良い、と考える

仏教は「苦から逃れる」ことを目的とする宗教です。自分が大事にしているものを失った時に感じる精神的な打撃が「苦」です。自分が大事だと思っているものは、人さまざまですが、例えば財産、地位、配偶者、子供、自分の健康・若さなどが考えられます。

これらのものを永遠に持ち続けることは、不可能です。愛する配偶者や親もいつかは亡くなります。自分の若さは日々失われ、老いていきます。「自分が大事にしているものもいつかは亡くなってしまう」という道理を、仏教は「諸行無常」と言っています。

「では、大事に思っているものを失う時に感じる苦を避けるには、どうしたら良いか?」という課題に対して、おしゃか様は「最初から大事に思っているものを持たなければ良い」と考えました。なにかバカにされたような、はぐらかされたような解答なのですが、本当におしゃか様はこのように教えたのです。

ある日突然に大事にしているものを失ったら、精神的な打撃は大きくなります。それに、「いつ失ってしまうのか」とビクビクして暮らさなければなりません。そこで覚悟を決めて、大事に思っているものすべてを一挙に捨て去れば、精神的な打撃は少なくなります。

これが出家です。おしゃか様は、29歳の時に王子という素晴らしい地位を捨て、妻子や大勢の妾を捨て、お城から出て乞食坊主になりました。自分の大事に思っているものをすべて一挙に捨てる「出家」によって、仏教の修行はスタートします。その後は人里離れた山の中に一人で暮らし、自分の心の中を清く保つ努力を続けるわけです。

出家をするには、大変な覚悟とその後の努力が必要です。凡人にはこのような厳しい修行は無理です。そこで「それほど厳しくものを持たない修行をしなくても、あとは仏様が助けて下さる」と主張する大乗仏教が、興りました。

特に日本の大乗仏教は、修業を極端に緩くしました。その結果、いまの日本の僧侶は結婚して家族を持ち、財産を持ち、「失ったら精神的な打撃を受けるもの」に囲まれた生活をしています。

仏教はもともと、ものを持たず山の中で一人で暮らすという生活スタイルをきっちりと守る宗教でした。ところが日本に入ってからは、生活スタイルを守らなくても、「心の持ち方」さえ立派であれば良い、というように変わっていきました。

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