国王が承認していないのに、憲法が出来た

1791年9月、フランスは、絶対君主であるルイ16世が承認していないのに、憲法を制定しました。法律的には、これは滅茶苦茶な話です。少し頭を使ってこの事件を考えてみれば、誰でもおかしいと思うはずです。

私は、1791年の憲法制定の経緯の怪しさを歴史学者はどう考えているのだろう、と何冊かの歴史書を調べてみました。そうしたら、フランスの歴史学者も日本の歴史学者もみんな、この憲法が成立していることに、何の疑問を抱いていないことが分かりました。

歴史学者たちは、1791年にフランスの憲法が成立した、と思い込んでいるのです。実は、ここが憲法の本質です。「多くの人が新しい憲法が成立した」と思い込んだときに憲法が成立します。そして、「多くの人が今までの憲法が消滅した」と思い込んだときに憲法は消滅するのです。

1789年~1791年の足掛け3年の間にフランスでは数々の大事件が起こりました。三部会の議員が国王の命令を聞かず、バスチーユ要塞が民衆によって襲撃され、各地で暴動が起き、貴族たちがフランスを見捨てて逃亡しはじめ、国王まで逃げ出しました。

このようなてんやわんやの状況の中で、多くのフランス人は、国民議会が作ったものがフランスの憲法なのだ、と思い込んだのです。だからこの時にフランス憲法が成立しました。

戦国時代末期に豊臣家と徳川家の二大勢力が、互いに覇権を争っていました。そして全国の大名たちもその家来の武士たちも一般庶民も、双方の戦いで勝った方が日本の支配者になる、と思っていました。関ケ原の合戦で徳川家が勝ったので、日本中が徳川家の支配に納得しました。そして、この政権が打ち出した、鎖国・参勤交代・キリシタン禁制などを憲法と認めたわけです。

幕末に尊王攘夷の志士がテロ行為を行い日本中が騒然となりました。その後薩長勢力が鳥羽伏見の戦いで幕府軍を破り、さらに戊辰戦争で幕府に味方する勢力を粉砕しました。その結果、日本中は薩長が支配者になったことを認めました。だから薩長勢力が作った大日本帝国憲法を認めたのです。

「フランスの国民議会」「徳川軍」「薩長勢力」などの勢力を、憲法学では「憲法制定権力」と難しい言葉で呼んでいます。要するに「憲法制定権力」は、軍事的・文化的権威で国民を納得させ、彼らが作ったルールが憲法であることを認めさせた政治勢力だということです。

新旧の勢力が衝突して新しい勢力が勝った途端に、古い憲法は消え去り、新しい憲法が生まれるわけです。

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