絶対に破ってはいけないとされていた鎖国という憲法の条項さえ、幕末にはあっさりと破棄されてしまいました。
では最後には消えてしまう憲法は、そもそもどのような経緯でできるのか、という疑問も湧いてきます。例えば、私が「これが新しい日本の憲法だ」と主張して草案を示しても、誰も相手にしないでしょう。では誰がどういう資格で提案すれば、それが憲法として認められるのでしょう。
どの成分憲法も、改正する手続きは定めています。しかし、「この憲法を廃棄して新しい憲法を作るときは、このような手続きでせよ」などと定めている憲法などありません。成文憲法も成文化されていない憲法も、その憲法が永遠に続くことを前提にしています。新しい憲法ができるときに、決まった手続きなどないのです。
ここで、1791年にできたフランスの憲法がどのようにしてできたのかを、考えてみます。18世紀のフランスはブルボン王朝が絶対君主制を行っていました。この王朝には成文憲法はなく、古くからの慣習が憲法を形づくっていました。この王朝は絶対王政ですから、国家の重要なルールを変える権限は、国王しか持っていないはずです。
この王朝は巨額の負債を抱え財政が破綻寸前でした。そこで新たな増税を行おうとし、増税法案を国民に認めさせるために、ルイ16世は三部会という議会を招集しました。議員たちは国王が考えた増税案に納得せずに王の政府を非難しました。国王側が三部会に敵意を示したため、国民の不満が爆発して革命騒ぎが起きました。ルイ16世やマリー・アントアネット王妃が国民に人気がなかったというのも、革命の原因です。
議員たちは、勝手に「国民議会」なるものを作り、ここで成文憲法を作ろうとしました。国王は、最初はこの「国民議会」を潰そうとしました。しかし、国民会議を多くの国民が支持したので、最終的に国王は国民会議の存在を認めました。
国王はこの議会が憲法草案を議論することを認めただけであって、その議会が作った条文がそのまま憲法となる、ということを認めたわけではありませんでした。それどころか、国民議会が勝手に憲法を作ろうとすることを苦々しく思っていました。
国王一家は、身の危険を感じて、1791年7月に王妃の実家であるオーストリアに逃亡しようとして途中で捕まり、フランスに連れ戻されてしまいました。以後、ルイ16世は監視され政治的力をすべて失ってしまいました。
そしてその2ヶ月後に国民会議は、「フランス憲法」を制定しました。このとき、ルイ16世は形式的にはフランスの絶対君主でした。だから彼が承認しなければ、憲法は成立しません。しかし、彼はこの憲法を承認も拒否もしませんでした。というよりも監視されて何の力もないので、承認も拒否もできない状態でした。
脅かされて行った法律行為は無効だ、というのは法律の常識です。つまり、この憲法は国王の承認なしに成立したのです。