台湾は支那の一部ではない

台湾がはっきりとした形で支那の一部だったことは、歴史上ありません。この島は永い間、マレー・ポリネシア系の原住民が住んでいて、はっきりした国家を作っていませんでした。17世紀から支那人が移住してきましたが、最近になってDNA鑑定をしたら、今の台湾人の85%は原住民の系統だそうです。台湾人は人種的に支那人ではありません。

16世紀中ごろ、ポルトガル人がこの島にやってきましたが、わずかな交易をしただけで、植民地にはしませんでした。江戸時代初期の1624年~1662年の間、オランダがこの島を植民地にしていました。

明王朝が1644年に滅びた後、遺臣の鄭成功は厦門(台湾の対岸)を本拠地にして明王朝の復興運動を続けていました。しかし厦門を清軍に奪われたため、残兵を率いて台湾に攻め込み、オランダ人を追い払いました。彼は台湾を新たな本拠地として大陸に攻め込み明王朝の復興運動を続けました。

鄭成功の父親は海賊兼貿易商で、母親は平戸出身の日本人です。その出自と派手な行動から、歌舞伎の「国姓爺合戦」の主人公になり、日本で大評判になりました。鄭成功の孫の時に、鄭一族は清に降伏したため台湾は形式的には、清の版図に入りました(1683年)。しかし、清は実質的な統治をしませんでした。

1871年(明治4年)、沖縄の石垣島の島民が台湾近海で難破し、台湾に上陸したところを原住民に殺されるという事件が起こりました。日本政府が清に厳重に抗議したところ、清政府は、「原住民は化外の民(国家統治の及ばない者)であるから、日本が殺人を犯した原住民を討伐することに異議を唱えない」という返事をしました。台湾が清の領土か否か、非常にあいまいな態度をとったのです。

日本は、1874年(明治7年)に台湾に遠征して原住民を罰し、その後、清に遠征費用と賠償金を請求しました。日本は、「沖縄は日本に属し、台湾は支那の一部である」という前提で清と交渉し、清は日本の主張を認めました。この時にやっと、「台湾は支那の領土だ」、ということが近代的な国際社会で決まったのです。

しかし、その20年後に日清戦争により、清は日本に台湾を割譲しました。「台湾は歴史的に支那の固有の領土だ」などと主張できるような、実態がないのです。