香港は支那の一部である

最近、支那及び周辺諸国で起きている人権問題については、みなさんも良くご存じだと思いますが、一応概略を説明しておきます。

香港は、もともと寒村でしたが、アヘン戦争後に締結された南京条約(1842年)で、香港島がイギリスに永久割譲されました。1856年のアロー戦争後の北京条約で九龍半島南部もイギリスに永久割譲されました。さらに1898年に九龍半島北部も99年間イギリスが租借することになりました。

つまり条約では、香港島と九龍半島南部はイギリスの領土なのですが、九龍半島北部は支那の領土で99年間(返還期限は1997年6月30日)、イギリスが借りているという状態だったのです。

九龍半島北部の返還期限である1997年6月30日に、永久にイギリスの領土のはずの香港島と九龍半島南部もまとめて、支那に返すことになりました(中英共同声明1984年)。つまり香港全土が支那の領土に戻ったわけです。

この時に、返還後も50年間は支那本土の共産主義国家体制を導入せず、イギリスが香港に保障していた自由と資本主義制度をそのまま残すことも決まりました(一国二制度)。

香港島と九龍半島南部は支那に返す必要がなかったのに、なぜ返したのかと言えば、世界の世論が昔と変わり、武力で威嚇して強奪したイギリスに味方する国がなかったからです。香港の返還が話題になっていた時、香港政庁の高官であるイギリス人が「北京から電話が一本きたら、それで終わりだ」と発言していたのを覚えています。支那が「返せ」と言ったらイギリスは抵抗することが出来なかったのです。

ではなぜ、このような立場の弱いイギリスが、50年間は香港のイギリス式の自由主義の統治を変えない、と支那に約束させ、イギリスの香港における利権を維持できることになったのでしょう。それはその方が支那に都合が良かったからです。

支那における資本主義社会との窓口は香港しかなく、金を外国から借りるにも、製品を輸出入するにも、香港が必要だったからです。また共産党の高官が不正に蓄財した金を海外に無事に逃がすにも、香港が今のままでいることが必要でした。