19世紀末、腐敗した清王朝を倒そうという革命運動が支那で盛んになりました。その代表格が孫文(1866~1925年)です。彼は広東省生まれですが、ハワイで成功した兄を頼ってアメリカに行き、そこで教育を受けて医者になり、さらにキリスト教徒になりました。
彼は外国で育ち教育を受けたために支那国内の事情を知らず、人脈もありませんでした。当時の最高権力者だった李鴻章に建白書を提出し、近代化を提案しましたが、まるで相手にしてもらえませんでした。そこで現地で革命運動を起こして失敗し、日本に亡命しました。要するに孫文は、支那に地盤がなく、アメリカと日本で有名なだけだったのです。
1911年の辛亥革命以前に、彼は10回も武装蜂起してすべて失敗しています。日本人は彼に巨額の資金カンパをし、蜂起に参加して死んだ日本人までいます。1911年10月の辛亥革命が起きたときはアメリカにいて、現地の新聞でこれを知りました。要するにかつての仲間からも相手にされなかったのです。
辛亥革命が起きて支那に帰った孫文は、新国家の臨時大総統に選出されました。この武装蜂起は各地の軍人が起こしたのですが、みんなどんぐりの背比べなので、しかたなく軍人ではなく、外国で有名な孫文を宣伝係にしようというだけのことでした。せっかくできた新政権は、袁世凱という大軍閥に乗っ取られて、孫文はまた日本に亡命しました。孫文はかつての同志から「大ボラ吹き」と言われて嫌われていたのです。
誰からも相手にされなくなった孫文に目を付けたのがソ連でした。ソ連は支那のような後進国では、すぐに共産党の勢力を拡大することは無理だと考え、孫文の属する国民党と共産党の合作を図りました。日本が相手にしなくなったので金に困った孫文は、資金欲しさにソ連の提案を受け入れました。
孫文が国共合作の提案を受け入れたために、共産党は壊滅を免れ、国民党もソ連の資金で勢力を拡大しました。孫文は、日本からさまざまな援助を受けたのに、日本を敵視するソ連を支那に引きいれ、国民党も共産党も反日になりました。
今、支那の「人権派」や「民主活動家」を多くの日本人が支援していますが、彼らが孫文のようにならないという保証はありません。彼らも結局は「国益」を追求しているのです。日本が国益のために支那の「人権派」を援助するのはOKですが、単に同情して深入りしてはなりません。