民族という概念は近代になって生まれた

古代から中世にかけては、「民族」という発想がもともとありませんでした。「中世でもドイツ語とフランス語という別々の言葉があって、言葉の通じる同民族と通じない異民族があったはずだ」という意見もあると思います。

しかし、「国語」というのが出来たのは近代になってからです。それ以前は方言の違いが大きくて、少し離れた地域の住民とは話が通じませんでした。言葉が通じなければ仲間だという感情が生まれないのも当然です。日本でも江戸時代までは方言の差が強くて、言葉が通じませんでした。江戸に出てきた武士どうしは、謡曲のセリフが全国共通だったので、その単語を使ってやっと話をしていました。

従って、統一国家が真っ先に取り組んだのが国語を作ることでした。世界的に有名な古典というのは、統一国家が出来た頃の有名作家が書いたものが多いです。当時の知識人は、これらの作品の文体を参考にして互いに話したり書いたりして、次第に国語ができていったのです。

イギリスのシェークスピア、ドイツのゲーテやシラーやグリム兄弟、スペインのセルバンテス、ロシアのプーシキンがこれに当たります。日本は江戸弁を国語にしようとして、尋常小学校で子供たちに江戸弁を教えました。これはロワール地方の言葉を国語にしたフランスの真似です。

江戸の庶民は両親を「おとうさん」「おかあさん」と言っていたので、これを標準日本語にしようとしました。そうしたら、薩長の高官の奥方たちが、「うちの子に魚屋や大工の言葉を教えるのか」と文部省に怒鳴り込んできました。彼女たちにとって両親は、「父上、母上」なのです。夏目漱石や森鴎外は、尋常小学校で教えた国語で小説を書いたので、彼らの文章が当時の日本人のお手本になりました。これが、彼らが文豪といわれるようになった理由です。

国語を持てなければ、民族が形成されません。支那は日本を真似して北京で話されていた言葉(北京官話)を標準語にしようとしました。さらに漢字を廃止してローマ字表記にしようとしました。ところが漢字の発音が地方ごとに違うので、ローマ字化は無理でした。

結局、北京官話は書き言葉という公式の言葉に過ぎず、日常で使う本当の意味の国語になっていません。支那では、北京官話は英語と同じように学校で習う外国語なのです。だから支那には民族主義ができていません。