かつてはチベットの宗教を「ラマ教」と言っていましたが、その実態は大乗仏教の教義を、シンボルを多用して表現したものです。大乗仏教ですから、出家して世間を離脱することが良いことだ、と考えます。
従って大乗仏教が普及すると、実社会を軽視して政治が浮世離れしてきます。チベットもそうなっていき、かつてはとても強かった軍隊がなくなり、現実社会を統治する国王がいなくなりました。ついにはダライ・ラマやパンチェン・ラマなどの僧侶がなんとなく社会の上に乗っかっているという頼りない社会になってしまいました。
モンゴルが台頭してきた13世紀には、チベットはこのような社会になっていました。ろくな軍隊がないので、チベットは侵攻してきたモンゴル軍に簡単に屈服しました。その時にサキャ派という宗派がモンゴル人を懐柔することに成功しました。
元王朝のフビライ皇帝は、サキャ派の高僧であるパクパを尊敬し、国師の称号を与えました。パクパは元を文化的に指導し、モンゴル文字を作ったりしました。なお、このモンゴル文字の変形したものが朝鮮のハングルです。このようにして、チベット仏教がモンゴル人に浸透していきました。
仏教を信仰したために、モンゴル人も次第に弱くなっていきました。13世紀にはモンゴル人がロシアを武力で征服しましたが、その後は立場が逆転し、ロシアがモンゴル人を征服し、シベリアを領土にするようになりました。
昨日、チベット仏教には「歓喜仏」という仏像があることを書きました。仏教の奥義に触れて恍惚としている状態を、男女が抱き合って性的なエクスタシーに浸っている像によって表現するというものです。
インド人は、性的なことを表現することが好きで、「カーマ・スートラ」など性の教科書とでも言うべき古典もあります。そのような「性の技術」が大乗仏教とともにインドからチベットに伝わりました。
チベットの仏教僧が元王朝の皇帝などの支配層に取り入った際に、「性の技術」を伝授しました。モンゴル人がチベット仏教に帰依した大きな理由がこれです。