鎌倉幕府が滅びたのは、元寇があったためだけではない

鎌倉幕府が滅びたのは、元寇があったためだけではない

鎌倉幕府の行政組織でも一番重要なのが、武士の統制を行う侍所と裁判を行う問注所で、鎌倉幕府は必死になって公正な裁判を行っていました。ところが最後になって長崎円喜という執権の家来が賄賂を取って不正な裁判を行ったために、御家人の不満が高まり幕府が崩壊したのです。

元寇を撃退できたのは、運が良かったから

元寇を撃退できたのは、運が良かったから

モンゴル人は、敵の内情を探って、敵に内紛を起こさせるのが得意だったので、もしも元寇の時点で北条氏に対抗できる強力な武士団がいれば、そのような謀略を仕掛けられる恐れがありました。しかし、そのようなライバルはすでに粛清されていました。

高麗王たちは、モンゴル化した

高麗王たちは、モンゴル化した

忠烈王を始め歴代の高麗王の母親が元の帝室出身のモンゴル人なので、みなモンゴル風の名前を持ち、普段は元朝の皇族と共に、夏は草原のテントで暮らし、冬は大都(北京)の宮殿でモンゴル式に暮らしていました。彼らは、自分の事をモンゴル人だと思っていたはずです。

新羅は日本にも気を使った

新羅は日本にも気を使った

日本領だった任那は百済や新羅に割譲され消滅してしまいました。しかし百済も新羅も任那が日本に納めていた税金を、代わりに日本に納めていました(任那の調)。百済を滅ぼした後の新羅も、任那の調を日本に払い続けていたのです。

白村江の戦いを契機に、日本人に愛国心が芽生えた

白村江の戦いを契機に、日本人に愛国心が芽生えた

大伴部博麻は白村江の戦いで捕虜になり、長安に連れていかれました。そこで唐が日本侵攻を計画しているという情報を入手し、これを何とか日本に届けなければならないと思いましたが旅費がありません。そこで博麻は自分を奴隷に売って、その金で4人の日本人捕虜を日本に帰国させました。