新羅は、朝鮮半島に超大国の唐を引っ張り込んだ

7世紀初めの朝鮮半島には、高句麗・百済・新羅の三国があり、それぞれ仲が悪かったです。任那日本領はすでにありませんでしたが、日本は百済を応援していました。そして、この四国は、「支那こそ最大の脅威だ」という認識では一致していました。

だから互いに争っているときも、支那を味方に引っ張り込むということはしませんでした。そんなことをすれば、あとでエライことになることが分かっていたからです。6世紀末から7世紀初めにかけて、高句麗が隋や唐と必死になって戦っているとき、百済や新羅は中立を守っていました。

ところが7世紀の後半に新羅は、朝鮮諸国間の昔からの暗黙の了解を破り、唐と同盟関係を持とうとしました。唐が新羅と対等の同盟など結ぶはずがないので、具体的には新羅が自分から進んで唐の属国になって助けてもらおうとしました。

そこで、次のような約束が成立しました。
1、唐と新羅は連合して敵と戦う。高句麗や百済の遺領のうち、平壌以南を新羅の領土とする2、新羅を王国として認める

高句麗・百済や日本は、新羅のルール違反の不意打ちを食らって戦いに敗れました。高句麗と百済は滅ぼされ、日本は朝鮮半島から追い出されました。ところが唐は約束を破って朝鮮に都護府(唐の辺境に置かれた軍団司令部)を設立しました。新羅の領土を増やす気もなければ、独立の王国にする気もなかったのです。

高句麗の遺領に安東都護府を設置
百済の遺領に熊津都護府を設置
新羅領に鶏林都護府を設置し、新羅王をその長官に任命した

都護府の長官は唐の官僚ですから、唐は新羅王を一人前の国王と認めなかったわけです。唐が約束を破ったために新羅が怒り、戦いが始まりました。当時吐蕃(チベット)、突厥・契丹・渤海が唐を攻撃していたので、唐も仕方なく新羅に譲歩しました。平壌の南の大同川まで(北緯39度)を新羅の領土として認めたのです。

39度線以北は異民族である女真人が住んでおり、農業もできないので、新羅はこの決定を受け容れました。

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