日本にやってきた「渡来人」は、出戻り組

4世紀~6世紀の朝鮮は、高句麗、百済、新羅、日本領の四つに分かれていました。高句麗は今の北朝鮮と満州を領土としていて、日本と朝鮮半島の支配を争っていました。百済と新羅は南朝鮮の東西にありました。両国とも日本に従属していて、貢物を納めていました。そして南岸に日本人の居住地帯があり、任那とか伽耶とか呼ばれていました。

日本人居住地域である任那(伽耶)の領土は、百済に割譲されて次第に小さくなり、6世紀半ばに消滅しました。海を隔てた遠方にあったので維持が難しかったということ、及び当時日本は百済を従えて高句麗と対峙していたので、百済の国力増強のために任那を割譲したという事情があったようです。

百済王家と日本の朝廷は、非常に親しい関係にありました。百済王家は高句麗王家の分家で日本人ではないのですが、百済の支配層には多くの日本人がいました。新羅の王家の先祖は日本から来たという言い伝えもあります。南朝鮮の支配層には日本人が多かったのです。

南朝鮮に住んでいた日本人の運命は、663年に大きく変わりました。この年に、唐と新羅の連合軍が百済を滅ぼし、さらに白村江の戦いで日本軍をも破りました。日本は朝鮮半島から追い出されたのですが、その時に国を失った百済の民を日本に引き取り、土地を与えて定住させたのです。

「当時の日本は人口が少なかったので移民を歓迎した」などという説は、古代の日本人をバカにしています。気心が通じない言葉も違うよそ者を引き取ったら、国内不安定の要因になります。同じ日本語を話す仲間だったから引き取ったのです。

当時の交通手段は限られていたので、百済にいた全ての日本人が帰国できたはずはなく、生粋の日本人の一部を日本に移住させるしか方法がなかったでしょう。残りは朝鮮に留まり、次第に朝鮮人と混血していったと思われます。

明治時代に唱えられた「日鮮同祖論」は、真実の一端を伝えていると思います。しかし1300年以上にわたって違う歴史を歩んできた結果、日本人と朝鮮人の考え方は全く違います。民族は血筋だけではないのです。血筋だけを言えば、イギリス人とドイツ人は先祖が同じですが、今の彼らは互いに相手を異民族だと考えています。

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