事大主義は、新羅の時代から始まっている

『三国史記』は、676年に新羅が朝鮮を統一するまでを書いた朝鮮最初の正史で、1145年にできました。新羅が朝鮮を統一したとは言っても、朝鮮半島の全域を支配したわけではなく、今の北朝鮮の大部分は唐が支配していました。

新羅が朝鮮を統一した前後の歴史を振り返ってみるだけで、色々な想像が沸き起こります。

663年 百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされる
・   白村江で、日本軍が唐と新羅の連合軍に大敗
672年 日本で、大海人皇子が甥の大友皇子を敗死させて、天武天皇になる(壬申の乱)
676年 新羅が朝鮮半島統一
701年 日本は、大宝律令を制定
720年 日本は、日本書紀を編纂
1145年 朝鮮は、三国史記を編纂

670年前後は、日本も朝鮮も大変革期でした。日本は白村江の戦いで敗けて朝鮮から撤退しました。そして唐が日本に攻めてくるという恐怖から、律令制を強化して中央集権化を促進し、迎撃態勢を整えようとしました。

日本書紀は日本最初の正史です。壬申の乱で甥を殺した天武天皇は、自分が実質的に新しい王朝を作ったという自負から、それまでの王朝の事績を書いた正史を編纂したのです。

新羅も統一王朝を作ったので、支那にならって、それまでの歴史を記した正史を急いで書いても良いはずです。ところがその正史ができたのが、なんと470年後なのです。不思議に思って私は1145年前後に何があったのか、年表を見てみました。

それまで支那では、唐と宋という強大な国が健在だったので、正史を編纂するという一人前の独立国家がする生意気なことを属国の新羅はできませんでした。しかし、宋が北方の野蛮人に滅ぼされ、支那北部が女真人という野蛮人に支配されたので、このような生意気なことができる環境になったのです。

事大主義は、こういうところまで及んでいるのですね。

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