赤穂浪士は、老母の世話より討ち入りを優先した

今まで赤穂浪士の討ち入りをネタにして、家や誠のことを書いてきました。赤穂浪士の討ち入り事件を観察することによって、日本人は儒教をまるで理解していない、ということも分かります。

儒教は、道徳的に振る舞うことを人間に要求します。儒教の道徳はいくつかありますが、重要なのは忠と孝です。忠は、自分の役目を一生懸命果たせ、という道徳です。孝は親を大事にしろ、という道徳です。

儒教は、忠よりも孝を優先すべきだ、と教えます。『孟子』の「尽心章句」は、「皇帝の父親が人殺しをしたら、息子である皇帝はどうすべきか」を論じています。もしも忠を優先すべきであれば、息子は自分の父親を死刑にしなければなりません。ところが孟子は、皇帝を辞職し父親を背負って逃亡せよ、と教えているのです。

赤穂浪士の討ち入り事件が起きた当時、日本の武士はみな儒教と称するものを学んでいました。討ち入りを決行すれば、討死するか死刑になるか、いずれにしても死ぬことは間違いありません。

赤穂浪士の何人かの母親はまだ存命でした。老母を置き去りにして子が死ぬのは不孝に当たりますが、彼らはみな討ち入りを選びました。「討ち入りという立派なことをすれば、家の名誉になり、ひいては孝になる」という説明をしています。

彼らは、孝よりも忠を優先したわけです。浪士たちが親を置き去りにしたことを非難する日本人も、いません。儒教の基本を理解していないわけで、日本人は儒教を理解できていません。

「日本人も支那人も儒教という共通の文化を持っているから、お互いに理解できる」と言う日本人が昔からいましたが、これはとんでもない誤解です。彼らには血縁関係にない者と助け合おうという誠の心をもっていません。

支那人が日本人と全く違う行動をとるのは、こういう理由からです。日本人もこういうことをそろそろ理解すべきです。

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