江戸時代、正規の武士と臨時雇いははっきり区別されていた

江戸時代の武士は、正規の「石取り侍」と非正規の「扶持取り」にはっきりと分かれていました。本来の武士は石取り侍であって、足軽など「扶持取り」は農民を臨時雇いしたという考え方です。苗字も正規の武士しか名乗ることを許されていませんでした。

江戸幕府の家来も「石取り侍」と「扶持取り」にはっきり分かれていました。「石取り侍」が旗本で、「扶持取り」が御家人です。

鎌倉幕府の御家人は、数千人・数百人の部隊を率いるれっきとした武士のことでした。しかし時代が下って江戸時代になると、御家人は百姓身分の臨時雇いを指す言葉になっていました。御家人も世襲されることがありましたが、建前はあくまで臨時雇いで、苗字を名乗ることを許されていませんでした。

江戸時代の家は、家禄を世襲してきた正規の武士が中心になって運営されていました。正規の武士は戦士に必要な教育・訓練を受けていたので、彼らは一般庶民よりも軍事的に強いと考えられてきました。

ところが幕末になってこの常識が怪しくなってきました。長州は、下関を通過する欧米の船舶を砲撃し、攘夷を実行しました(文久3年 1863)。この時に外国艦隊から長州を守るために百姓や町人など武士以外の庶民を募集して奇兵隊という軍事組織を創設しました。「奇兵」とは正規の武士を意味する「正規兵」の反対語で、雑軍というニュアンスがあります。

その後長州藩の内部で、佐幕派の上級武士と尊皇倒幕派の下級武士の対立が激化し、尊王討幕派が藩の中央政府に対して反乱を起こしました。この反乱軍の中心になったのが、奇兵隊でした。

慶応元年(1865)、200人の奇兵隊と長州藩の正規軍1000人(上級武士が中心)が、絵堂という領内の村で会戦し、奇兵隊が勝ってしまいました。この時に長州藩の志士たちは、武士は近代戦には使い物にならない、ということを悟りました。

この時の奇兵隊の隊長をしていたのが、山県有朋でした。彼は明治の初めから大正時代まで帝国陸軍を支配し、維新の元勲として政界全体にも大きな影響力を行使した人物です。

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